37歳がんで逝った男の20年後も残る闘病録の重み HTML手打ちでHPに希少がんとの闘いをつづった

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<状況が好ましくないことは、以前から承知のことです。今さらジタバタするつもりはありません。 厳しい状況を冷静に受け止め、しかし生き続けるという希望を捨てず、元気に生きていこうと思います。>
(精巣ガン/経験談/ムンテラ 2002年4月24日(水))

これが「経験談」の最後の更新となる。

最期の瞬間まで家族とともに

7月末に右肺が無気肺となり、抗がん剤治療も中止するなど、厳しい状況となる。それでもサイトの更新は止めない。

<秒針の動き方が好きで、もう何年も前から自動巻きの腕時計を使用しています。左手に点滴をするときや、手術のとき以外はいつも身に付けています。だから、常にゼンマイを巻かれた状態なので、時計が停止することはありませんでした。
ところがここ最近、朝起きると時計が止まっているようになりました。すなわち、自動巻きの時計を動かせるほどの手の動きがなくなったということです。少し動いては息切れがするので、家中にいてもほとんど動かなくなったという証拠です。>
(精巣ガン/日誌/自宅療養/2002年8月11日(日)腕時計停止)

8月の終わりには自力での更新が難しくなるが、妻の佐栄子さんと弟さんに代筆してもらう形でなおも更新を続けた。そして9月7日の夜に息を引き取る。

当日の様子は佐栄子さんが日誌に詳しく記している。

<朝方からゴロゴロ、ゼーゼーと痰が絡んで痰が切れない様子で、私から見ればとても苦しそうにも見えました。しかし主人のメモ書きには「痰が詰まっているようで喉がゼーゼー、ゴロゴロしている。苦しくはない。」と2回記してありました。
「病院に行こうか?」という周りの者の問いかけに、ひとさし指を口に当てて、「しー その話は後でするから、待っていて」と答えるばかりでした。
(略)
亡くなる1時間半くらい前におかゆを食べると言って食べようとするのですが、器を手に持ったままうとうとしてしまいました。
結局食べさせてもらうことになりましたが、「美味しい、美味しい」と言いながら食べていました。
昨日までは何を食べても後口が悪いと言っていたのに、この時は本当に美味しそうに食べていました。
(略)
夕方6時くらいからはずっと手を握っていました。
6時20分くらいに私の手をぎゅっと握って酸素マスクをはずし「ありがとう ありがとう」と言いました。
マスクを戻さないと苦しいと思い、私がマスクをつけにいくと首を横に振ってもう一度マスクをはずして「ありがとう ありがとう・・・」と何度も何度も繰り返しうなずきながら目を閉じていきました。
この時の主人の声はもう痰も絡んでいなくてはっきりと聞こえていました。
気が付くと私も主人に「私こそありがとう」と繰り返していました。
(略)
この時点で私は初めて主人が亡くなるのでは・・・と感じて、実家に預けていた子供たちを呼び寄せて救急車を呼びました。
子供の到着と救急車の到着とはほぼ同時でした。
子供と主人はぎりぎりで対面できました。
救急車に乗ってドアが閉まったとたん「呼吸停止」という救命士さんの声が響きました。>
(精巣ガン/日誌/自宅療養/2002年9月7日(土)闘病生活最終日そして新たな旅立ち日)
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