自宅療養中のある日、佐栄子さんが「私にできることは?」と尋ねると、賢二さんは「死ぬことは怖くないけど、1人で死んでいくのはつらいから最後までそばにいて手を握っていてくれたらそれでいい」と答えたという。37歳と半年。希望したとおりの最期だった。
葬儀の後に14の「遺書」をアップ
冒頭に引用した「遺書」は、葬儀の後にアップされた。佐栄子さんも知らなかったが、賢二さんに頼まれた弟さんが約束のタイミングで公開したという。
遺書ページは14のメッセージがリンクされている。佐栄子さんに向けた「君にあえてよかった。」「いい人を見つけて」や、家族全員に向けた「愛すること」「最後のお願い」、不特定多数の人に向けたと思われる「お見舞い」「仕事とは?」など。いずれも化学療法が効かなくなり、死の覚悟を強くした2002年3月に書いたものだ。
このうちの「仕事とは?」を開いたとき、筆者の脳裏には、賢二さんはMy Schoolを人生最後の仕事に据えたのではないかという思いが浮かんだ。
お給料をたくさんもらったとき?
仕事が成功したとき?
「あなたと一緒に仕事ができて嬉しい。」と言われたとき、最高に嬉しかった。
そこに、仕事とは何かの答えがあるような気がする。
2002年3月7日>
(遺書/仕事とは?)
My Schoolがスタートしたのは、再度復帰した職場を離れて三度目の長期入院に入るタイミングだった。もう二度と職場で仕事できないかもしれない。ならば、これからの自分でも続けられる新たな仕事を始めよう。希少がんとの闘いを世に伝える。その準備は万全だ――。
最も近いところで思いを受け取っていた佐栄子さんは、前述の臨終の日の日誌にこう書いている。
それと同時に主人と私たち家族の新しい旅立ち日が始まったので今後は私が My Schoolの中に新たなコーナーで主人にメッセージを送っていきたいと思います。>
それは賢二さんの仕事を引き継ぐ意思表明といえた。
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