なぜソフトバンク工藤監督は背番号81なのか 「常勝軍団」は、いかにしてつくられるか

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根本は幅広い人脈をたどって秋山が懇意にしていた運動具店を見つけ、「プロではバッターとしてやりたい」という秋山の意向をキャッチ。他球団が投手として誘ったのに対し「バッターとして育てたい」とアプローチして、獲得に成功するのだ。

工藤は翌1981年夏の甲子園で一躍脚光を浴びた。左腕から繰り出す切れのいい真っすぐとブレーキ鋭いカーブを武器に、2回戦で長崎西(長崎)相手にノーヒットノーランを記録するなどベスト4に進出。1位指名が確実視されたが、社会人の熊谷組入りを打ち出し、ドラフト直前、12球団に断りを入れた。

他球団が敬遠する中、西武は広岡達朗監督の「即戦力の左投手がほしい。『ダメ元』でいいから」の要望を受けて6位で強行指名。各方面から批判を浴びながら、根本は固く閉ざされた扉をこじ開け、入団にこぎつけた。

秋山は米留学などを経験して4年目の1984年から1軍に定着。広岡監督から「ボーヤ」と呼ばれた工藤は1年目の1982年から1軍で活躍。1986年から始まる森政権下で、ともに主砲、エースとして活躍したのは言うまでもない。

根本は1992年オフ、西武を去りダイエーの代表取締役専務兼監督に就任。1993年オフに西武との3対3のトレードで秋山を獲得。翌1994年オフには王貞治の監督招へいに成功して球団専務に専念し、FAで工藤を迎えた。

ドラフトでは小久保裕紀(現侍ジャパン監督)、城島健司、井口忠仁(現ロッテ)、松中信彦らを獲得。戦力を整え、常勝球団の礎を築いた。球団社長に就任した1999年、4月30日に急性心筋梗塞で急逝。その年、チームはダイエー11年目にして初の優勝を飾る。中日との日本シリーズも4勝1敗で制した。工藤がシーズンMVPならシリーズMVPは秋山だった。

辣腕根本に導かれ、広岡・森に「勝つ野球」を仕込まれた西武のDMAに、王の情熱というエッセンスを加えての悲願達成。似たようなコースをたどってきた2人は、ここから違う道を歩む。

次ページ豊富な経験もとに監督へ、秋山を追いかける工藤
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