源頼朝に打倒平氏を決起させた「謎の怪僧」の正体 父・義朝のドクロを使い、懇意になったとされる

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『愚管抄』(鎌倉時代前期の歴史書。天台宗の僧侶・慈円が著者)には「文覚は、流罪中に4年間、同じ伊豆で朝夕に頼朝となれ親しんだが、法皇の仰せがあったわけでもないのに、法皇や平家の心中を探りつつ、勝手に差し出たことを頼朝に言っていた」とある。

『玉葉』(平安時代末の貴族・九条兼実の日記)には、文覚が義朝の首を獄中から取り寄せたとの記述が見られる。このことから、後白河法皇の平家追討の院宣は存在したという説を唱える著名な学者もいる。

しかし、頼朝と文覚に何らかの交流はあったのだろうが、謀反の勧めまでしたと判断するのは慎重でなければならない。

院宣の存在を認めているのは「平家物語」だけ

文覚が伊豆に流されたのは、承安3(1173)年、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮になった翌年である。平家全盛の時代だ。そのような時期に文覚が頼朝に謀反を勧めたとも考えにくい。しかも、文覚は治承2(1178)年に罪が許されて、帰京しているのである。

頼朝の挙兵は治承4(1180)年。2年の開きがある。時期的にも文覚が頼朝に謀反を勧めたとは考えにくい。このような逸話が生まれた背景には、文覚ならばそのようなこと(謀反の勧め)をしかねないという当時の人々の心情が絡んでいたのではなかろうか。

後白河法皇の院宣の存在を認めているのは『平家物語』のみであり、『愚管抄』に至ってはその存在を否定している。院宣が本当に出されていたならば、その存在を記すはずである。記載がないということは、平家追討の院宣はなかったと考えてよいのではないか。

後白河法皇と源頼朝は後に親密な関係を築くことになるが、両者の間で院宣の話は出ていない。法皇の院宣によって頼朝が兵を挙げたのならば、その話に触れるはずだが、そうした形跡もない。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に幕府によって編纂された歴史書)でも、院宣について記していない。

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