源頼朝に打倒平氏を決起させた「謎の怪僧」の正体 父・義朝のドクロを使い、懇意になったとされる

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仏道を志して出家と言えば信仰心があついとのイメージだが、源渡の妻で美女の袈裟(けさ)に思いをかけ、最終的には、夫の身代わりとなって寝所に臥す袈裟を殺害した揚げ句の出家との説もある(『源平盛衰記』)。

出家してからの文覚は、修行の苦難を試すために、炎天下のなか、7日間、藪中に寝て、毒虫が体を刺しまわるままにさせ「修行というのは、この程度か」と言ったという逸話が残る(『平家物語』)。

また、熊野に参詣し、12月、寒中の那智の滝に5日間打たれたとされる。各地の霊場を経めぐり、仁安3(1168)年、30歳の時に、京都の神護寺に草庵を結ぶ。そして、荒廃した同寺の復興に尽力するのである。

だが、そのやり方は強引なものだった。後白河法皇の御所・法住寺殿に押し入り、大音声で復興のための寄進を要求(1173年)。投獄され、のちに許されたが、「この世は、今に乱れ、君も臣も滅び去るであろう」などと触れ回るので、遠国・伊豆に配流となるのであった。

伊豆で頼朝に出会って懇意に

伊豆で近藤国高という者に預けられた文覚は、同地にいた頼朝と出会い、懇意にするようになったという。さまざまな話をするうちに、あるとき、文覚は「あなたほど将軍としての相をもっている方はありません。早く謀反を起こして、日本国を手中にお収めなされ」と頼朝に平家への挙兵を勧めるのである(『平家物語』)。

頼朝は、清盛に助命嘆願してくれた池禅尼の冥福を祈ることに専念しているとして、謀反など思いも寄らないことを告げる。すると文覚は「天が与えるものを受け取らないと咎を受けましょう」と言い、頼朝の父・源義朝の頭蓋骨を取り出し見せるのである。文覚は、牢獄の前の苔下に埋もれていた義朝の頭蓋骨をもらい受け、長年弔ってきたというのだ。

頼朝は涙を流し、これ以後は、いっそう打ち解けて文覚と語り合ったという。それでも頼朝は「流罪の身の者がどうやって謀反を起こせようか」ととまどいがちであったが、文覚は「福原へ参り、院宣を頂戴してきましょう」というが早いか、福原に行き、後白河法皇の院宣(上皇・法皇の命令を院司が承り発給した文書)をもらい受け、伊豆に戻るのである。頼朝は院宣をひらく前に手を洗い、口をすすいで、三度拝礼したという。

『平家物語』が載せるこれらの逸話は、現代人から見てもうさんくさく、偽りのように思えるが、まったくの虚構でもないようだ。

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