上京40年「初めて帰郷した男」を迎えた見知らぬ母 浅田次郎・最新長篇「母の待つ里」(1)全公開
「心配(しんぺえ)すんな。湯たんぽさ入ってるがら、じきに温(ぬぐ)まる」
松永徹は夜具(やぐ)の中を足で探った。湯たんぽに気付いていなかった。ネルの布にくるまれた波形の腹にあしうらを当てると、ころあいのぬくもりが伝わった。
「おめ、眠れねがか」
「いや、眠るのがもったいなくって」
「静(すんず)かだがらねえ。東京の夜はやかますかろう」
コンクリートで鎧(よろ)われたマンションの寝室には、完全と言ってもいい静寂がある。だがそれはやはり、密室の中の貧しい静けさだった。
「んだば、寝物語ば聞がせてやるべ。覚(おべ)えてやんすか。寝る前(めえ)にァ、えっつもえっつも、昔話さ聞がせてけろって、せがんだもんだ」
「なら、聞がせてけろ」
答えあぐねていると、母は「どだや」と水を向けた。
「話の途中で眠っちまうかもしれないが」
「ほいでええよ。寝物語だべさ」
「なら、聞がせてけろ」
松永徹は母の口ぶりを真似て話をせがんだ。
むかしむかし、あったずもな。
相川宿さ冷(ひゃ)っけえ風がピューピュー吹ぎ抜げる、日暮れまぐれのこどだって。
慈恩院の和尚(おす)さまが、六ツの鐘さ突きおえて御門ば閉(た)でようとすたら、道の先の庚申様の角ッこに、どごの御新造(ごしんぞ)様やら立派(るっぱ)な紬(つむぎ)ば着た白髪(すらが)の婆様(ばさま)が、ぼんやり立っておらすたずもな。
ハテ、檀家でもねえし、遠ぐの長者殿の家(え)さ嫁ッこに行った人(しと)が、墓参(めえ)りにでもお出ェったがと声かけたんだが、さもが呆(ほろ)けとるようで何(なぬ)も言(へ)わね。ただただ、ぼうっと相川の家並(ええな)みさ見渡すて、「もうはァ、何十年もたったでば、覚(お)べた人もねがんすなっす」と、ふぬけたみてえにつぶやいたんだと。
すたっけえ、ちょこっと目ェはなしたすきに、もうは庚申様のあだりにァ影もかたちもねぐなっていたんだとさ。
宿場の衆に聞いたとごろが、たすかに婆様を見かけた人がなんぼもあった。そごらを行きつ(やっつ)戻りつ(けえっつ)すては、同しよな独りごつさ言(へ)ってたそうだ。
んだば、年食ってほろけたどこぞの御新造が、道さ迷ったんだか。そだったら探さねばならねと皆して出かかったんだが、話を聞いでお出えった村一番の爺様(じさま)が、おっきな声で「やめるもしェ」と止めるのだわ。こう、目(まなぐ)さ吊り上げで、「やめるもしェ」と叱るのだてば。
のう、トオル――そこで爺様が、なぬさ言ったがわがるが。
聞いたとたんに、だれだりかれだり悲鳴ば上げて逃げ出したんだど。
「やめるもしェ。あの婆様はの、娘ッこの時分に神隠しにあったんだじゃ。なんたら、惨(むじ)え話ではねが、年寄ってよっぽど里さ恋しぐなったんだべァ」
婆様がどっからお出えって、どこさへ帰(けえ)って行(え)ったんだかはわがらね。
今でもこごらの人(しと)は、冷(ひゃ)っけえ風がピューピュー吹ぐ日暮れまぐれになれァ、白髪(すらが)の婆様に会いたぐねがら、さっさど家(え)さ帰るのす。
どんどはれ。
「寝だか、トオル」
松永徹は答えなかった。
「んだば、おやすみなんしェ」
寝物語の分だけわずかに開いていた板戸が、そっと鎖された。よもやと思うほどじきに、母の寝息が伝わってきた。
山家暮らしに飽きて、卒然と姿を消す若者は昔からいたと思う。間引きや姥捨(うばすて)が罷(まか)り通った貧しい時代には、それでも食い扶持(ぶち)がへることにちがいはないから、あながち悪い話ではなかったのかもしれない。神隠しにあったと思えば、あきらめもつく。ある日ひょっこり帰ってこようが、二度と再び会えなかろうが、神隠しならばかまうまい。
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