上京40年「初めて帰郷した男」を迎えた見知らぬ母 浅田次郎・最新長篇「母の待つ里」(1)全公開

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「こごらも年寄りばかりになってしまってなァ、おらほの倅もこんたな寺を継ぐ気はねがら、ハテどやすべえと御本山に相談すてるんだ」

聞く耳はない。墓参りもせずに帰るつもりかと、責めてでもいるような口ぶりだった。

「バスが来ます」

松永徹は門前をやり過ごした。

「ちよさんたら、大喜びで墓さ掃除すてたんだがなァ」

「申しわけない。バスが来ました」

振り向いて手を振った。

「ありがどがんす。またお出ってくなんせ」

母と同じ文句を口にしながら、老いた住職は合掌した。

 

バスの乗客はきのうと同じ病院通いの老婆たちだった。

まさかとは思ったが、二人そろって「あやあや」とたまげたのだから、偶然にはちがいない。

「おはよがんすゥ」

見知らぬ人にも挨拶をするのは、あたりまえの習慣なのだろう。松永徹も会釈を返して、奥のシートに座った。

慈恩院の和尚(おす)さまは合掌してバスを送っており、見上げれば寺の裏手の高みに、はっきりそうとわかる茅葺き屋根があった。

べつだんの感慨はない。ただ、ふしぎな体験をしたのはたしかで、夢ではない証拠には、米だの味噌だの漬物だのをぎっしりと詰めた鞄が、かたわらに置かれている。

ふるさとの景色が過ぎてゆく。あるいはふるさとと信じた景色が。

バスはきのうと同様に、乗降客の絶えてない停留所を通り過ぎて走った。

松永徹は携帯電話の電源を入れて、シートの蔭に身を屈めた。

「ユナイテッドカード・プレミアムクラブ、吉野(よしの)が承ります。お手数をおかけいたしますが、お手許のクレジットカードに記載されているナンバーを、すべて入力なさって下さい。では、どうぞ」

四桁、六桁、五桁。つごう十五ものカード番号を押す。面倒なことこのうえないが、「世界最高のステータス」を自負するからには、当然のセキュリティーとも言える。

「松永徹様。失礼ですがご本人様でらっしゃいますか」

「そうです」

「かしこまりました。では生年月日を承ります」

答えたあとでいつもいくらか間が空くのは、たぶん声紋分析をしているのだろう。

「サービスは終了ということでよろしいでしょうか」

「本日は、ユナイテッド・ホームタウン・サービスのご利用、ありがとうございました。少々お時間が早いようですが、何か不都合でもございましたでしょうか」

こうしてようやく対話が始まる。吉野という女性担当者は、さすが「世界最高のステータス」の名に恥じず、電話の受け答えにそつがない。

「いや、すばらしかったよ。何だか申しわけなくなって、早めに切り上げてきた」

「さようでございますか。ご満足なされましたか」

「もちろんさ」

「では、現在時刻十一月八日午前九時三十二分ですが、サービスは終了ということでよろしいでしょうか」

松永徹は座席の蔭から身を起こした。小声で話している分には、運転手に咎(とが)められることもあるまい。話はじきに終わる。

「ところで、リピートはできるのかな」

「喜んで承ります。ただし、原則としてヴィレッジのチェンジ、ペアレンツのチェンジ等のご要望には添いかねます」

「それはそうだろうね。ふるさとが二つあるわけはないし、親が気に入らないというのはわがまますぎる」

『母の待つ里』(新潮社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら

「はい、おっしゃる通りでございます。リピートのご予定を伺えますか」

「いやいや、まだ日程は決められない。近々連絡します」

「かしこまりました、松永徹様。では、またのご利用をお待ちしております」

電話を切ると、ようやく心が落ちついた。あまりにもできすぎていて、虚実がわからなくなっていた。

白鳥の群れるみずうみが過ぎてゆく。これほど満ち足りた気分がかつてあっただろうか、と松永徹は思いたどった。年齢とともに、足るを知るどころか不満ばかりがつのるようになったと思う。

車窓に映る顔は綻(ほころ)んでいる。どうして逃げるように帰ってきてしまったのだろうと、松永徹は今さら悔やんだ。

ふるさととは、そういうものなのかもしれないが。

浅田 次郎 作家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

あさだ じろう / Jiro Asada

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。2011年から6年にわたり、第16代日本ペンクラブ会長も務めている。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事