上京40年「初めて帰郷した男」を迎えた見知らぬ母 浅田次郎・最新長篇「母の待つ里」(1)全公開

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山の鳴る音が聴こえた。風が出てきたのだろうか、閉(た)てられた雨戸を枯葉が叩くたびに、松永徹はまどろみを破られた。だが、騒がしさはない。酒ではなくふるさとの安息が睡気を誘っているのだった。

「こんたな山家(やまが)だで、口に合わねだろが」

よっこらしょ、といちいち唸り声を上げて、母は土間と炉端を往き来する。串を打たれた川魚が囲炉裏に立てられた。

「岩魚(いわな)だ」

「うんにゃ、山女(やまめ)だべさ。下(しも)のほうに養魚場があってな。背戸(せど)の嫁ッこが働(はだら)いてるがら、帰りがてら配達すてけるだじゃ」

日頃の買物はどうしているのだろう。相川橋のバス停にも店らしい店はなかったと思う。

「心配(しんぺえ)しねでええ。週に一ぺんは物売りのトラックが来るし、たまにァおらが運転して買物にも行(え)ぐすけ」

「エッ、運転するの」

「あのなはん、年寄ったら運転すてはならねだの、七十過ぎたら免許証の自主返納だのて、そんたなこつ、都会の理屈だじゃ。だれだりかれだり、口ば揃えて言(へ)ってるがなァ」

おっしゃる通りである。やはりこの箱形のテレビは、母にさまざまの情報を伝えてくれているらしい。ただし、都市生活の見識が全国的に通用するわけではあるまい。そのあたり、地方局の番組が世論を補ってくれているのだろうか。

「よっこらしょ」

どんぶりに盛った野菜の煮付け。このごろこういうものが好きになったが、さすがに一人前を作る気にはなれない。かと言って、コンビニの惣菜を買うのもためらわれる。

「やあ、これは何よりだ」

「んだんだ。四十年ぶりでも味付けァ変わらねど。思い出してくなんせや」

里芋を口に含んで、奥の知れぬ豊饒な味に溜息が洩れた。おふくろの味というよりも、この曲がり家の竈を代々守ってきた数知れぬ母たちが、頑(かたく)なに伝えてきた味に思えた。

「なじょすた、トオル。口に合わねが」

とっさには答えられず、煙の抜ける天井を見上げた。

国内最大のシェアを誇り、世界規模のマーケットを持つ社業に、卑しさのようなものを感じたのだった。

「いや、うまい。こんなうまいものは初めて食べた」

母がほっと息をついた。

「初めてなわげあるめえ。どの口が言(へ)うだじゃ。さあて、酒ばつけるか、それよっか飯(まま)にするべか」

何という贅沢な夕食だろう。考えるまでもなく、「ごはん」と松永徹は言った。

頭も心もからっぽだった

夜が広い。

際限なく。心許(こころもと)ないほど。たとえば、宇宙のただなかをあてどなく漂っているような。

山の音も虫の集(すだ)きも絶えてしまった。枕に通うのは酒に煽(あお)られた鼓動だけだった。

純潔の孤独が記憶どころかあらゆる想念まで奪ってしまうことを松永徹は知った。頭も心もからっぽだった。

日ごろ使い慣れた羽毛蒲団などではない、ぎっしりと綿の詰まった重みがここちよい。目に見えぬ力に護られているように思える。

こんな夜を重ねるうちに、やがてこの山里も深い雪に埋もれるのだろう。

「おお、寒ぶ寒ぶ。冷(しゃ)っけえ風呂さ入(へえ)っちまった」

座敷を隔てる板戸の向こうで、寝床に潜りこむ母の気配がした。

「何だよ。沸かさなかったのか」

「終(しめ)えの風呂は温(ぬぐ)めてはなんね。女衆(おなごし)はいつだって冷え風呂だべし」

ハラスメントどころか虐待だが、男を立てるならわしと火の用心を全うするなら、そういう話になるのだろう。

「一緒に寝ようか」

小さな母が、硬い蒲団の中でいっそうちぢこまっていると思えば、それも冗談ではなかった。

「なんぼなだって、ええ年の倅に温(ぬぐ)めてもらう母(あっぱ)はおるめえ。お父(ど)さんなら嬉しェけどな」

そう言って母はくぐもった声で笑った。

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