上京40年「初めて帰郷した男」を迎えた見知らぬ母 浅田次郎・最新長篇「母の待つ里」(1)全公開
寝物語にかこつけて、自分もそう思い定めていたのだと、母は言ったのだろうか。少くとも松永徹には、その話が他人事(ひとごと)だとは思えなかった。
神隠しにあった子供が年老いて、ふと里心がついたとする。だが、いざ足を向けてみれば、過ぎにし歳月の重みが、懐旧の情を圧し潰してしまうのではなかろうか。そして、すべてを忘れたことにする。ふるさとの山河も生まれ育った家のたたずまいも、母の顔すらも。
茫々たる夜の広さが、実はあるべきはずのものをなくした空洞であったことを、松永徹は知った。
「ようやっと帰(けえ)ってきたのに、たった一晩でば、せづねえな」
上がりかまちにちょこなんと座って、母は倅を見送った。
「またきてもいいですか」
「ええがって、おめの家でねか。だども、おらだってハァこんたな齢だがら、また何年も先の話ではわがねど」
母の用意してくれたみやげは、新米一升と炉端で燻した沢庵漬。朝食の味噌汁をうまいとほめたら、三年仕込みだという手作りの豆味噌も、どっさり包んでくれた。
ぴんと張りつめた朝である。竈の煙が土間に縞紋様を描いていた。
新幹線は午過ぎだが、一刻もいたたまれぬ気分がまさった。軽トラックで駅まで送るという申し出は、さすがに遠慮した。すると、いくらか臍(へそ)を曲げたように、「だば、ここでえがんすなっす」と母は言った。
一時間に一本のバスを乗り逃がしてはならない。重い荷物をぎっしりと詰めこんだ鞄を肩にかけて、松永徹は立ち上がった。
「またお出ってくなんせ」
「のう、トオル。ゆんべの話は気にするでねど。思いつぐまんま語(かだ)っただけでァ」
いくらか気持ちが楽になった。
「俺は神隠しにあったわけじゃないよ」
「んだんだ。だば、お静(すず)かにお出んせや」
え、と松永徹は訊き返した。
「気をつけで行(え)ってらっしゃい、てこどだわ」
美しい別れの言葉だ。
「せめてお父(ど)さんの墓参りぐれえはなァ」
「また次の機会にね」
ずいぶんないいぐさだと思いながら、松永徹は重ねて母の願いを拒んだ。きのうのうちから何度も、母は慈恩院の墓参りを口にしたが、さすがにそればかりは気が進まなかった。
「ありがどがんす。またお出ってくなんせ」
背中に声をかけられて振り返れば、母は板敷に小さく丸まって両手をつかえていた。
山々はきのうよりも朱を増したように見えた。
冷たい風が街道から吹き上がってきた。空はどんよりと濁って、今にも雪が舞い落ちてきそうだった。
まるで夢の中のように足が進まない。枯草に被われた坂道は殆(あやう)くて、母のみやげを詰めこんだ鞄はよろめくほど重かった。
慈恩院の築地塀に沿って街道に行き当たると、きのうは気にも留めなかったが、なるほど寝物語の通り、苔むした庚申様があった。
ふと、辻にぼんやりと佇む白髪の老婆が胸にうかんだ。
上等の着物を着ていたのだと母は語った。聞き流していたものの、思えばそこは話の肝なのかもしれない。人買いに連れられて村を去ったのか、それとも奉公に出たまま帰らなかったのか、しかし娘はそののち恵まれて紬を着る身分になった。だからこそ失われたふるさとを訪ねる気にもなったのだろうが、人生の浮沈にかかわりなく時は流れるのだと、物語は諭しているとも思えた。
「あんやァ、トオッちゃん。昨日(きのな)お出ったばかりで、もうはお帰(けえ)りが」
落葉を掃く手も休めずに、石段の上から老いた僧が言った。
ようやく夢から覚めれば、また夢の中だったような気がして、松永徹は溜息をついた。
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