ぼくたちが「利益を生まない図書館」を続ける理由 「他者の欲望」模倣より「ちょうどよい」身体実感

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奈良県東吉野村にある「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」。ちゃぶ台も置かれている(写真:青木海青子)
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東インド会社を起源とする500年の歴史を持つ「株式会社」制度。なぜ、このような制度が生まれ、現在まで続いているのか。実際にいくつもの会社を起業し、経営し、そして畳んできた事業家でもある平川克美氏は、著書『株式会社の世界史 「病理」と「戦争」の500年』で、その謎に迫っている。奈良県東吉野村で「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を運営する『手づくりのアジール 「土着の知」が生まれるところ』著者・青木真兵氏が、同書を読み解く。

「社会のあり方」のほうが間違っている

「ちょうどよい」生活がしたいと思っています。

ぼくの言う「ちょうどよい」とは、誰もができるだけ我慢や嫌な思いをせずに、希望に沿った暮らしができる「ケアフルな状態」のことです。そんな理想的なことなんてあるわけがない。みんな我慢をして働いたり、嫌なことに耐えているからこそ、社会は回っているのだ。そんなふうに「大人たち」は言うかもしれません。

『株式会社の世界史 「病理」と「戦争」の500年』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら

でもはっきり言って、それは「社会のあり方」が間違っています。決められた慣習やルールに人や動物、植物をはじめとする生き物が合わせる「ケアレスな状態」から、生き物に合った社会を作っていく「ケアフルな状態」が当たり前になるためには、ぼくたちは意識を変えていく必要があります。

「ちょうどよい」は、人それぞれ違います。なぜかというと、その基準は各自の「身体実感」に基づくからです。各自の「身体実感」は男女差をはじめ、身体自体が異なるだけでなく、季節や年齢、家族や友人、職場での人間関係に影響を受けやすい、もしくは受けにくいなどの差異も含まれています。

しかし日本ではそれを無視して、制度やルール、慣習といった社会のほうに人が合わせていく能力が重視されがちです。こうした「画一的なもの」に自らを沿わせる能力を持った人のことを「社会人」と呼び、「一人前」として扱っています。しかしこの「社会人化する力」は、各自の純粋な能力だというわけではありません。

「いかに社会に適応できるか」によって評価される「社会人」としてのキャリアは、日々やライフステージの中で身体的変動が男性より激しい女性にしわよせが行く前提で設計されています。女性が出産でキャリアを諦めざるをえなかったり、共働きをしている夫婦であっても、例えば子どもができたときにフォローしてくれる家族や、ベビーシッターなどを雇うことができる金銭的余裕がなければ、「社会人」でい続けることは難しい。

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