ぼくたちが「利益を生まない図書館」を続ける理由 「他者の欲望」模倣より「ちょうどよい」身体実感

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現代人の多くは株式会社に属すことで生活の糧を得ています。つまり多くの人は法人という、身体を持たないヴァーチャルな存在が利益をただひたすら増大させるという目的のために、人生という限られたリソースを投入している。そしてそれ自体、「仕方がないこと」だと思わされている。それは本書で述べられているように、人間が慢性的に罹患している欲望という「病」が関係しています。

欲望の最終的な行き先は、貨幣へと向かう。貨幣こそは「私」と他者を隔てる最も明確でわかりやすい指標だからである。私たちは社会の中で、自分が生きていくうえで必要なものと交換するのに必要な貨幣だけを欲しがっているわけではない。他者が所有しているのと同じだけの、あるいは他者と自らを隔てる象徴としての貨幣を所有したいと欲望する。この関係を模倣=擬態の理論をつくった人類学者ルネ・ジラールは「人間は、他者の欲望を欲望する」と、的確に表現した。
(『株式会社の世界史』247ページ)

「他者の欲望を欲望」している状態とは、あの車が欲しいとか、あの洋服が欲しいと思っているのは、実は自分ではなく他者なのだということです。そしてその欲望を満たすために貨幣がある。商品経済社会で育ったぼくたちは、そもそもこの欲望が自分のものなのか、他者のものなのか、そんなことを考えたこともありません。でも確かに、欲しい物が商品である以上、そこにはすでに「他者の欲望」が介在している。

現代社会はすべての物質が商品化し、金銭という形で数値化がなされ、市場に並んでいます。野菜や果物、お肉といった生鮮食品から、ゲームや自転車、車といった機械製品。また営業活動や塾の講師、マッサージといったサービス業は人間が労働力という商品になっています。これらすべてが商品となり、お金で交換することができる。これが「資本の原理」によって構築された、現代社会の仕組みです。

「ケアレスな状態」から「ケアフルな状態」へ

人が社会に合わせていく「ケアレスな状態」では、他者の欲望を欲望することを求められ、あらゆる物質が商品化することを要請されます。しかし社会が人に合わせていく「ケアフルな状態」を手に入れるためには、他者の欲望も自分の欲望もどちらも欲望してよいことを、他者も自分もお互いに認め合わなければなりません。そのためにはまず、ぼくたちは「自分の欲望」なるものの尻尾をつかまえておく必要がある。どうすればつかまえておけるのか。ぼくは『手づくりのアジール』で以下のように書いています。

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