岩倉具視も根負け「大久保利通」凄い交渉術の要諦 よそよそしい出会いの2人の距離が縮まった訳

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大久保が岩倉に何を提案したかと言えば「勅使派遣」である。久光が上洛した目的は「朝廷と手を組んで、江戸幕府に改革を迫る」ということ。朝廷から誰かを幕府に派遣してもらい、江戸に直接乗り込み、改革を約束させようと、久光や大久保は考えたのだ。

だが、岩倉は、自分が勅使となって江戸に行くのは、どうも気がすすまなかった。権大納言の中山忠能から「勅使にはぜひ岩倉を」と推薦を受けても、固辞している。代わりに勅使には、豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれることになった。

このとき岩倉自身が勅使になることを断った理由はいくつか考えられる。

1つには、前年に公武合体をめぐってあらぬうわさが立ったとき、岩倉は幕府の老中たちを舌鋒鋭く責め立てて、将軍の徳川家茂に事実上の詫び状まで書かせている。またもや、自分が前面に立って、幕府の上層部と対立するのは、得策ではないと考えたのかもしれない。

もう1つの理由としては、岩倉には、まだ薩摩藩と手を組むことへの抵抗感があったのではないかと、筆者は考えている。というのも、岩倉が目指したのは「朝廷が政策決定をして、幕府が実行する」という新たな政治システムである。それが実現する前に、幕府が外様の有力諸藩に権力を奪われることを、岩倉は何より危惧していた。孝明天皇にこんな意見書を提出しているくらいである。

「有力大名が公家と接触して京に入ってくることは混乱の一因になりかねない。伊達や島津のような外様雄藩を頼って、幕府に対抗することは決して考えてはならない」

まさに今、岩倉の予想どおりに、その島津が朝廷を頼ってきているわけである。

岩倉が大久保を門前払いしなかったワケ

本来ならば、門前払いにしてもおかしくはない。だが、岩倉の気持ちは変わりつつあった。

なぜならば、岩倉は先に書いたように、公武合体への誹謗中傷について、老中たちを責め立て、おおよそ関係のない将軍に詫び状まで書かせている。自分の暴挙がまかり通ったことで、幕府の弱体化が想像以上だと改めて感じたのである。

朝廷中心の公武合体を実現させるためには、有力諸藩を利用したほうがよいのではないか――。大久保が訪ねてきた時期、岩倉はそんな変節のターニングポイントに立っていた。まさに、絶妙のタイミングで2人は出会ったといえるだろう。

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