岩倉は公家らしからぬアウトローな気質を、儒学者の伏原宣明(ふせはら・のぶはる)に面白がられたのが、世に出る最初のきっかけとなった。伏原が親しかった岩倉具慶に「この児は麒麟児だ。養子にもらってはどうか」と勧めたことで、岩倉家の養子となり、新しい名である「具視」を与えられている。
いわば、西郷と同様にポテンシャルを評価されて、出世のきっかけをつかんだことになる。岩倉家に入った岩倉は従五位下に叙せられて、昇殿を許されたばかりか、翌年には朝廷で宿直勤番を務めるなど、順調に出世していく。
だが、上昇志向のかたまりである岩倉が、それで満足するはずもない。中央の政治に参加するため、関白の鷹司政通に目をつけて近づこうとする。
そのために岩倉は政通のもとで、和歌を学ぶことを決意。嘉永6(1853)年という、ペリーの黒船が来航するその年に、岩倉は政通のもとに入門を果たしている。これは、大久保が趣味の囲碁を通じて久光に近づいたのと、まさに同じ発想だといえよう。
岩倉は、西郷と大久保が世に出た方法を組み合わせた形で、下級公家から二段式ロケットのごとく、勢いよく中央政界へと躍り出たのである。
そんなときに岩倉が出会ったのが、久光とともに上洛してきた1人の薩摩藩士、大久保利通だった。
初対面の岩倉を相手に「意見を申し立てて押し切った」
後から振り返れば、重要となる同志との出会いが、必ずしも劇的とは限らない。共産主義者としてともに革命に身を投じたマルクスとエンゲルスも、ライン新聞社のオフィスで出会ったときは、意外にもお互い冷ややかな態度だったという。あれだけのちに意気投合する2人だが、初対面のときはその兆しすらなかったのだ。
大久保と岩倉の出会いもまさにそうだった。文久2(1862)年5月6日、岩倉邸を初めて訪ねた日のことを、大久保は日記にこう記している。
「岩倉と面会するように命じられたので、少しずつ押し切って建白を行った」
大久保は初対面の岩倉を相手に「意見を申し立てて押し切った」と淡々と記録している。岩倉にとって、大久保は5歳年下になる。押しの強い田舎の若造に、うんざりする岩倉の顔が目に浮かぶようである。
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