弱音吐く、すぐ泣く…リーダーを部下が慕う真意 室町幕府を築いた足利尊氏もダメ人間だった!

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そんな尊氏がなぜ、倒幕の旗頭として担ぎ上げられたのでしょうか。

当時、鎌倉幕府を仕切っていた執権の北条氏は、平家の出です。北条氏の上には征夷大将軍もいましたが、頼朝父子の3代が死去してからは、最初は藤原摂関家から、次いでは皇族を連れてきて、飾りとして据えているだけで、実質的な武士の棟梁は北条氏でした。

一方の足利氏は源氏の出でしたが、幕府のナンバーツーとはいえ、平家の北条家の下に立っていたわけです。

足利家の雪辱「いつの日にか天下を取る」

平家に支配されているという屈辱(源氏からみた場合ですが)──これを変えるべく、足利家ではいつの日にか、と代々思うようになり、呪いのような遺言が言い伝えられるようになりました。それは祖先である源義家(頼朝の4代前)の「自分は7代目の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文でした。真偽のほどは、わかりません。

ただ、その7代目の子孫である尊氏の祖父・家時(本当は8代目?)はこれを本物と信じていたようです。彼には、自分には鎌倉幕府を倒すことは無理だ、との思いがありました。

しかし、そこは名門足利の当主です。その代わり、子孫3代ののちに、かならずや天下を取らせると自らも願文を残して、なんと切腹して果てたといわれています。

そして、その3代の後がたまたま尊氏だったのです。彼にすれば鎌倉政権に特段の不満はありませんが、血気にはやる周囲からは問題の置文を突きつけられます。もし自分にも天下を取る気はない、と言明するのであれば、願文を延長するために、尊氏も祖父同様に切腹しなければ筋が通りません。

「なんで、私が……」

何不自由なく済まれ育った彼は、目の前に、天下を取るか、切腹かの二択を迫られたわけです。貴族のお坊ちゃんにとっては、どちらを選んでも厳しい未来が待っていました。

それでも気が弱い尊氏はこの流れに逆らえず、「ならば、自分が討幕をやる!」と宣言してしまったのです。もちろん、彼が挙兵する以前に幕府の天下は乱れ、後醍醐天皇や楠木正成らによる討幕の動きは活発化していました。

けれども、まだ幕府にとどめを刺すだけの兵力は決起していませんでした。そのボーダーラインを尊氏は突破したことになりますが、とても彼にそのリーダーシップは発揮できたとは思えません。

ですが、世の中はあの足利氏が決起したということで、全国の武士も次々に呼応し、鎌倉幕府に反旗を翻したのでした。その際、尊氏は後醍醐天皇を討幕の旗頭に担ぎました。そして見事、鎌倉幕府を滅ぼしたのでした

ところが、後醍醐天皇が中心になって始めた政権="建武の中興"は、世の中の実像に合っていませんでした。すでに支配階級は武士に移っているのに、帝は昔の天皇制に戻そうとしたのです。

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