19歳頃、友人の叔父が経営する健康商品の会社の倉庫係で働かないか?と誘われた。
「二つ返事で入ってみたら、実際にはパソコンで社報などを作る仕事をまかされました。そこでパソコンの使い方や編集ソフトの基礎的な使い方を覚えたのが、のちのちすごい役に立ちました。
あと社長の友人に詩人の河村悟さんという方がいらっしゃいました。この人との出会いはすごく大きかったですね。河村さんからは、書くこと全般についていろいろお話をうかがいました。中でも、
『言葉というのは怖いものなんだよ』
というのがいちばん勉強になりましたね。
河村さんから学んでなかったら、いまだにゲームをするような軽い気持ちで文章を作っていたかもしれません。
言葉というのは使い方によっては人を殺す凶器にもなる、と若い時に知れたのは良かったです」
佐藤さんはその会社で6年ほど働いた。
働きながら、いよいよ物書きになろうと心を決めた。
「正社員になったんですが、社長にお願いして契約社員に戻してもらいました。出勤も週3日だけにしてもらい、代わりに生活の保障はなくなりました。自らダウングレードした形ですね。月収も20万円を切りました。
そうやって無理やり時間を作って小説を書きはじめました」
群像新人文学賞で優秀作を受賞
そうして書き上げたのが『サージウスの死神』(講談社)だった。
佐藤さんにとってはじめて最後まで書き上げた作品だった。
書き上げた後は河村さんに勧められた第47回群像新人文学賞に応募し、優秀作に選ばれた。単行本にはならないと言われていたが、1年後には単行本として出版された。
「優秀作は次点なので2位です。自信過剰なんですけど、あのときは優勝すると確信してました。銃爪(ひきがね)を引いた時には確かに
『的に当たった』
という感覚があったのに、実際には的には弾痕が残っていない。
『あの弾はどこにいったんだろう?』
という感覚になりました。
実は今でもその感覚は残っています」
その後、小説の仕事が増えたわけではなかったが、福岡には飽きがきていたので、26歳の時に上京することにした。
「僕より先に、弟や友人たちが上京してたんです。すでにみんなが働いていた、高円寺にある血液検査のキットにラベルを貼るアルバイトをすることにしました。
お金も全然なかったので、高田馬場の弟の部屋に押しかけて住まわせてもらいました」
弟の部屋は、玄関、トイレ共同、風呂なしのアパートだった。暖房もない部屋で、窓にはアルミホイルを貼って断熱していた。
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