「“ヤコペッティ”という響きからインスパイアを得て、洞窟に巨大な脳みそが現れてそれと戦うような……今思えば『スターシップ・トゥルーパーズ』みたいなお話を書きました。それをクラスに回して読んでもらったら、みんな面白がってくれて、受けるんだなと思いました。
ただ、当時の福岡には、良くないことですけど
『物書きなんて、男の仕事じゃねえ!!』
みたいな雰囲気がありました。小説家への興味は公言せず、プロレスラーを目指しました」
中学校には当たり前だがプロレス部はなかった。当時は総合格闘技とかもなかったため『柔道部で寝技を覚えよう』という発想もわかなかった。
「コスチュームがプロレスラーと似ているという理由で水泳部に入りました。水泳部に入ったら、プールの使えない1年の半分は休みだろう……という考えもありました。でも水泳部の顧問が本格的なバドミントン経験者で、冬場は強制的にバドミントンをやらされました。ヨネックスのラケットとかも買わされて、大会にも出場させられて。当然、惨敗するんですけど、
『俺たちは本当は水泳部なんだよ!! ちくしょう!!』
って悔しかったですね」
大学進学はせずに父親の仕事を手伝う
佐藤さんは中学2年生までは本気でプロレスラーを目指していたという。
「中学2年で、新日本プロレスで活躍したスコット・ノートンというプロレスラーを間近で見たんです。身長190センチ、腕周り61センチ。脂肪がなくて冷蔵庫みたいな身体をしてるんですよ。その身体を見て、
『これは無理だな……』
って諦めがつきました。
その後、福岡大学付属の男子高(現在は共学)に進学しました。不登校ではなかったですけど、学校は嫌いでしたね。戦いのリングに上がる夢は少し残っていて、フルコンタクト空手とかを習ったりしたんですけど、怪我もあって諦めました。
それからはだらだらと本を読んで過ごしていました。当時は『審判』(フランツ・カフカ)とかを読んでいました。
自分でも小説を書こうと思って、草稿とかメモとかを書き溜めてましたけど、書けなかったですね。自分では書けると思ってたんですけど。
『書けないもんだなあ』
と思いました」
大学へは進学しなかった。
高校を出るとすぐに、父親の仕事を手伝いはじめた。
「親父はバン、僕は軽トラで現場に行ってペンキを塗ってました。でも四六時中、九州男児の父親といるのは厳しかったですね。8カ月くらいで辞めてしまいました。
辞めた後は、新幹線の車内販売のワゴンに飲料などをセットして持ち上げる仕事をしました。結構な力仕事で、たぶんこの頃がいちばん身体がでかかったですね。
一度シフトに入ると翌日の始発まで担当するので、1日家に帰れないんですが、当時は実家に暮らしていましたから、むしろ親父のいる家に帰らなくてすむのは助かりました」
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