岸田総理は、「新しい資本主義」をスローガンに掲げています。これまでとは違う路線を打ち出そうということなのでしょうが、「新しい」という言葉はやや気になりますね。というのも、改革路線の失敗を考えるなら、改革以前の日本社会が持っていた良い部分に目を向けたほうがいいと思うからです。
もちろん昔の日本のあり方がすべて良かったなどとは思いませんが、古い時代の良きものを取り戻すこと、それこそが保守派のあるべき姿だと思います。この点、岸田総理がどのように考えているのか、あまりはっきりしません。「新しい資本主義」だけだと、結局、看板をつけかえただけで、そのうち改革論にのっとられてしまうのではないかと危惧します。
中野:これまでも「構造改革前の日本を取り戻すべきだ」と主張する人はいましたが、そのたびに「昔に戻ればいいのか」と批判され、「いやいや、単に昔に戻るわけではありません」とトーンダウンするといったことが繰り返されてきました。しかし、構造改革以前のほうがパフォーマンスが良かったのだから、単純に昔に戻すだけでも日本経済にとってプラスに働くはずです。なぜそのことを認められないのかという疑問はありますね。
柴山:そこは施さんの話が正しくて、新自由主義路線を転換しようとすると、「新自由主義政策をやめると、他国との競争に負けてしまう」と批判され、資本の流出などが起きてしまうからだと思います。新自由主義から脱却するには、日本一国だけでなく、各国が足並みを揃える必要があると思います。
「新自由主義的」と相性のいい戦後日本
佐藤:改革疲れに関する指摘については、私も完全に同意見です。新自由主義的な構造改革路線は、高度成長の終わった1970年代後半あたりから、日本を新たに発展させる方法論として提起されました。当時は「構造」改革とは呼ばれませんでしたが、とまれ、その中身は具体的に何か。端的にまとめればアメリカ化の徹底です。戦後日本人の意識には「アメリカ=世界」の図式がありますから、それこそ国際化だということになった。
同時に構造改革路線は、貿易問題におけるアメリカへの譲歩を正当化するうえでも好都合。いい例が1989年の「日米構造協議」です。これは英語だとStructural Impediments Initiative、「構造的障壁撤廃折衝」ですから、向こうが一方的に攻勢に出ているのですが、それに応じるのは日本自身のためにもなるという大義名分が立つ。屈服することこそウィン・ウィンなんだという理屈ですね。
しかしいくら改革を進めても、日本は発展するどころか、逆に衰退してゆく。かくして2010年代、政府は何をするようになったか。本当は結果が出ていないのに、「いや、成果は上がっている」と強弁するようになったのです。