「ナンパ好き」源頼朝が一大勝負で見せた"別の顔" 大勢の武士を味方につけるため賭けに出た!

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結婚に反対していた時政も、政子の説得に応じて、頼朝の伸るか反るかの大勝負に荷担することになりました。政子の兄・宗時も、弟の義時も引きずられるように参画しました。

彼らは兵力も大したことなく、正攻法では勝てないと、まず村祭りで人が出払っている隙を狙い、山木を討ち取りました。しかし、次の重要な正式の旗揚げの一戦=石橋山の戦いでは、頼朝はあっさり負けてしまいます。

義時の兄・宗時はこのおり、討ち死にしてしまいました。生命からがら、なんとか頼朝は逃げのびたのでした。

源頼朝が援軍に向けた意外なひと言

 この敗戦が明らかになった段階で、ようやく遅れていた関東各地からの援軍が、頼朝のもとに集まってきました。彼ら豪族たちは現実主義者が多く、最近の平家ののさばり方に不満を持っていました。

ならば平家の世の中よりは、源氏のリーダーを担いだほうがマシだ、と考え、豪族=武将が続々と頼朝のもとに集って来たわけです。とはいえ、彼らの集結が遅かったために、頼朝は石橋山の戦いで負けたともいえます。旗揚げ時点での兵数は、たったの300人ほどでした。

そこへ、東国の上総広常という大豪族が、悠々と合流してきました。彼は2万騎という大軍勢を率いて現れたのです。しかし、近隣の地域から馳せ参じた武将より、2日も遅れての推参でした。

それでも広常に悪びれる様子はありません。彼からすれば、源氏の棟梁の旗揚げといっても、自分たちの助力がなければ頼朝は何もできないだろうと、高を括っていたからです。

ましてや、負け戦のあとに自分が大軍を連れてきたのだから、頼朝は泣いて喜ぶだろう、と完全に舐めていました。自前の兵をほとんど持たない頼朝からすれば、打倒平家のためには万単位の兵を動かせる大豪族の応援が必須条件でしたから。

歴史を振り返ったとき、ここが頼朝の正念場でした。もし、広常の思った通りの応対をしたならば、鎌倉幕府は成立していなかったかもしれません。ここで頼朝は、思わぬ反応を示したのです。

「遅れてきた者に目通りは許さぬ。帰るがいい!」

なんと広常に門前払いを食らわせたのでした。このときの頼朝は大惨敗を喫して必死で逃げのびて、やっと軍勢を立て直している最中です。本音をいえば、喉から手が出るほど広常の兵力が欲しかったはずです。

実際、まだ味方の兵力は1万程度しか集まっていませんでした。広常が連れてきた軍勢はその2倍の兵数です。気分を害した広常と合戦となれば、頼朝は勝てなかったかもしれません。そんないろいろな気持ちをまったく顔に出さず、その兵力を要らないと彼は言い放ったわけです。

あまりに予想外の対応で、広常は唖然としたでしょう。彼らからすれば、頼朝は源氏の棟梁とはいえ、たかが流人です。敗軍の将である頼朝を、心の底からリーダーと認めていたわけではありません。

いまだに誤解している人が多いのですが、頼朝は源氏の正統=宗家ではありません。従兄弟に木曽義仲があり、大兵力を持った武田信義も、己れこそが源氏の棟梁だと主張していました。頼朝の権威は生き残ったことによって築かれたもので、最初からあったものではないのです。

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