ディズニーシー、開業までの苦闘と20年の歩み 当初は海ではなくスタジオパークの計画だった

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そんな姿に業を煮やしたディズニー社は1991年7月、何と最後通牒の書簡を突きつける。

「オリエンタルランドには失望した。目標を達成する見込みがないのであれば、このプロジェクトはやるべきではない」

白紙撤回の危機を目前に、経営陣は根本から計画を見直すことになる。結果的にはスタジオを断念し、方向転換をディズニー側に伝えるのだった。そうした中でも「ランドと異なる魅力を持つパークを作り、ファンに何度も足を運んでもらえるようにする」との姿勢は明確で、強気のディズニー社に対しても譲ることはなかった。

コンセプトは固まったが・・・

そして1992年2月、オリエンタルランドの要求も盛り込み、ディズニー社が新たに示したコンセプトが「7つの海」だった。現在のシーの根幹となる要素はすべて含まれていたようだ。中には生きたペンギンやイグアナ、鳥などが登場するアイデアもあったという。オリエンタルランドもこれには賛同。以降は問題点を潰しながら、共にコンセプトを固めていくことになる。

ただ、その後の交渉も一筋縄では進まない。ロイヤルティーに関する議論が頓挫し「企画の検討作業を中止した」との書簡がディズニーから届いた。舞浜地区の開発の主導権をめぐって、作業中止を通告されたこともある。

2001年9月4日午前8時、当時社長だった加賀見氏らは船上からディズニーシーの開園を宣言した(ⒸDisney)

パートナーと思えないほど熾烈なやりとりだが、根底には本音をぶつけ合えるだけの関係性があったのだろう。幾度も座礁の危機を乗り越え、粘り腰の交渉が続いた。「東京ディズニーシー」として概要が明らかになったのは1997年のこと。計画公表から約10年もの年月が経過していた。

3350億円を投じ2001年に誕生したシーは、ファミリー向けが中心だったランドと差別化するため、より本格的なエンタメを志向した。大人が楽しめるアトラクション、ショーを多数そろえ、レストランではコースメニューを提供、それに合わせてアルコール提供も開始した。

こうした工夫で1人当たりの飲食売り上げを伸ばし、手薄だった40代以上のゲストも年々増加することになった。

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