米国人記者が見た「特攻」と裏にある愛国の危うさ なぜ無駄死にすることが美徳となったのか
理由は大きく分けて2つある。当初、命を賭した攻撃を恐れていたアメリカ軍だが、すぐに特攻機の標的が空母にあることを見抜く。
対策として、レーダーで特攻隊の接近を把握し、空母群と特攻機の間に多数の護衛機を配備する作戦をとった。特攻機は航続距離を延ばすために、防御力や耐久力と引き換えに軽量化が図られていたため、待ち構えていた護衛機の格好の的となった。
長引く戦争の影響で国力が低下していたことで、粗悪な戦闘機が生産されるようにもなっていた。機体を整備できる人間も減り、燃料不足から不純物が混ざったものが使われるようになる。引退状態にあった老朽機まで投入されはじめた。そのため、出撃しても故障で帰還したり、不時着したりしてしまう特攻機が少なくなかった。
戦争の継続能力を失いつつあったのは明らかだっただろう。それでも特攻機は、本土防衛の最前線と化していた沖縄で重用されていく。
公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会によれば、特攻戦における日本軍の戦没者は3948人で、内訳は陸軍が1417人、海軍が2531人だ。沖縄戦に限れば陸軍が1036人、陸軍と連動した海軍の航空部隊は2045人にのぼり、全体の約4分の3を占めている。
上空だけでなく海中からも特攻
特攻攻撃は上空からだけでなく、海中からも仕掛けられた。人間が操作して体当たりする魚雷だ。大型潜水艦の甲板に搭載され、標的として定められた敵艦の近くから発進されるというもので、太平洋戦争末期に海軍によって極秘裏に開発・投入されていた。
その特攻兵器は、天を回し戦局を逆転させる、という願いを込めて「回天」と命名された。全長14.8メートル、直径1メートルの魚雷に人間が一人乗れるスペースを設け、操縦するための簡素な設備や襲撃用の潜望鏡が設けられた一方で、開発がはじまったときに設けられていた脱出装置が、試作機が完成した1944年7月には取り外されていた。
乗り込むときに通るハッチは、当然ながら出撃後は水圧で内側からは開かない。これが何を意味するのかは明白だ。先頭部分に1.55トンの爆薬を積んだ人間魚雷をひとたび出撃させれば、攻撃の成否に関係なく搭乗員の命はなかった。
1944年11月8日に初めて実戦へ投入されている。終戦までに回天の搭乗員、整備員などを合わせて145人が命を散らした。戦没時の平均年齢が21歳あまりという尊い犠牲を伴いながら、撃沈させたアメリカ軍の艦船3隻の中に、当初標的としていた空母は含まれていなかった。
回天の訓練基地は山口県内および大分県内の4カ所に存在していた。最初に瀬戸内海に浮かぶ山口県周南市の大津島に設けられ、34人の訓練搭乗員が全国から集まった。終戦を迎えてほとんどの施設がアメリカ軍によって破壊あるいは撤去された中で、大津島の訓練搭乗員宿舎跡に回天記念館が建てられたのは1968年だった。
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