米国人記者が見た「特攻」と裏にある愛国の危うさ なぜ無駄死にすることが美徳となったのか

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アメリカ軍はそこでとどまることなく、戦場での結果を研究して、さらに強い戦闘機を次々に開発した。戦争が始まったころに圧倒的に有利だった零戦は、1943年以降は、アメリカ軍の戦闘機に太刀打ちできなくなった。

新しい技術や武器の開発に力を入れたアメリカと対照的に、日本は零戦を戦争の閉幕まで使っていた。

ガダルカナル島の戦いをあらためて振り返れば、矢折れ刀尽きても、「最後は大和魂で戦え」と日本軍の上層部が厳命していたように思えてならない。そうでなければ、優秀なパイロットに苛烈な戦術を強いる、まして命を捨てる覚悟で敵機へ激突するなどという戦術をとることもないだろう。

ガダルカナル島に送られた陸上部隊も同じであった。物資の補給路を断たれた地上戦では、餓死者および病死者が戦闘で命を落とした戦没者の3倍以上に達した。兵站(食料や戦闘機器などの補給、いわゆる後方支援)の整備は、戦争を遂行するうえでは最も重要なことの一つなのだが。

敵艦に体当たりできた特攻機は約1割

特攻隊の歴史は戦争も末期、1944年10月25日に幕を開けた。フィリピンのルソン島から出撃した、23歳の関行男海軍大尉を指揮官として編成された6機の部隊が、レイテ島沖でアメリカ軍の空母群に突撃。護衛空母を炎上させ、沈没させる戦果をあげた。

この部隊のほかに3部隊が編成された。生きてかえることが許されないミッションが託され、旧海軍内で「神風特別攻撃隊」と命名された。彼らが飛び立ったルソン島のマバラカット西飛行場の跡地には、日本語で「第二次世界大戦に於いて日本神風特別攻撃隊が最初に飛び立った飛行場」と記された慰霊碑がある。戦果は大本営の海軍部によって大々的に発表され、新聞も号外を出して報じた。

特攻による戦死で2階級特進した関海軍中佐は軍神として崇められ、母親が住んでいた愛媛県西条市の実家前には「軍神関行男海軍大尉之家」と書かれた案内柱が立てられ、見知らぬ弔問客が数多く訪れる名所となった。

戦後の調査によれば、最終的に約3300機を数えた特攻機のうち、実際に敵艦に体当たりできたのは約1割にすぎなかった。安全保障や戦史の調査研究を行う防衛省の附属機関、防衛研究所の調査で報告されている。

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