「名門組織だったので、四国の両親は、そりゃ激怒ですよ(笑)。でも、旧態依然とした組織にすっかり心が折れた私は、そうするしかなかったのです。でも、この決断こそが人生最善の決断のひとつでしたね。だって私、ここからが人生のスターティングポイントでしたから」
1年で名門組織を飛び出した泉川さんが目指した、次なる道とは?それは、イギリスへの留学だった。
「高校のときにイギリスにホームステイした縁で、たまたま知り合いがロンドンにいたこともあり、彼女を頼って渡航。まずはローカルコミュニティの語学学校を目指しました」
ここイギリスや旅行した隣国フランスで、泉川さんは、語学力を磨くのみならず、自分が本当にやりたいことは何か? 自分のモチベーションは何か?――自問する貴重な機会も得た。
「学校の授業の後、“同級生”とご飯を食べに行くでしょ。その仲間が、ある企業で役員にまでなった50代の女性だったり、あるいは子育てをしながらパートタイマーとして働く40代の女性だったり、多様性に富んでいるのです。しかも、みんな人生を謳歌していてね。
フランスに旅行したときもそう。70歳くらいのおばあちゃんが白髪に真っ赤なコートを着て、おじいちゃんと楽しそうに寄り添って歩いている姿を見て、私は、こんなふうに生きたい!と思いましたね。そして、死ぬときに『ああ私の人生面白かったな、よかったな』と思って死にたいと痛感したのです」
語学学校を卒業して帰国した泉川さんは、「人生を謳歌するキャリアプラン」を模索した。そこに、あれほどあこがれていた「記者」という選択肢は、もはやなくなっていた。
「日本の男性社会の重圧に押されながら働くのは、女性の私にとって生きにくいと思いました。それに、日本の報道機関は、個人より組織が尊重されがち。私という個人を個の人間として認めてくれる組織に行こうと思いました」
そこで選んだ仕事が、日本の教育関連の会社だ。ちょうどこの会社は、ヨーロッパに拠点を持つ予定で、駐在員を必要としていた。その会社側の要件に、泉川さんのキャリアはピタリと符合したのだ。
「社長が非常にリベラルな人で、女性の私にも駐在員になるための1年間の研修を受けさせてくれました。ここでミッチリ、ファイナンスなどビジネスの基礎を学び、ロンドンに駐在。スペインのマドリード、フランスのパリの学校のライセンス権を買う交渉や実務を担当しました」
これをキッカケに、泉川さんは、20代半ばにして、お茶くみも仕事のウチだったドメスティックな「アナウンサー見習い」から、世界を舞台に八面六臂の活躍をする「グローバル人材」に飛躍していった。
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