はあちゅう「自分ゴトの解決が社会のためになる」 ネオヒューマンは現代の生きるアート、希望だ
ご本人は、自身が目指すものを「真のサイボーグ・アーティスト」と表現されています。まさに「本人とはなにか」「私とはなにか」を訴えかけられ、対面すると、否が応でも「人間とはなんだろう」ということについて考えさせられる。アップデートしたその先は、宗教的、人間の存在を超えたもの。現代の生きるアートのような存在だと思います。
『ネオ・ヒューマン』のストーリーそのものも、実はAIが作った壮大なアートなのかもしれません。
人間とは「思考」である
そういった意味で、本書は非常に文学的なところがあるとも感じます。
ピーターさんは「概念」そのものになろうとしてますよね。人間の定義ってなんだろう、生きる意味ってなんだろうと、考えてしまいます。
私は、予測できないところこそが、人間味だと考えています。この人はこういう人なんだろうと思って、でも結婚してみたら別の面が見えてきた、というような、すべてが予測通りでないことが、人間と機械との違いだと思うのです。
ですから、機械化して、AIによって自動化されていくことによって、どこまでが「人間」と言えるのだろうかという疑問があります。いったいどこでアイデンティティを持つのだろうと。
私の家族が、もしもサイボーグ化したらと考えてみます。現在1歳半の息子については、今後どのように成長していくかは、まだ誰にもわかりません。ですから、時の止まった、成長しないAIになってしまうと、それは家族ではなく、もはやペットのようなものになり、いつか虚しさを感じるのではないかと想像します。
でも、夫の場合は、少し違います。もう41歳ですし、私も「これが彼だ」というものをわかっています。ですから、夫の体のパーツがサイボーグ化していっても、彼だと感じるように思います。
ただ、こうも考えます。義足などは本人の意思で動かされるものです。しかし、その義足を動かす思考、脳が本人のものでなくなってしまったら、どうだろう――。
思考パターンがAIによって自動化されてしまうと、やはりそれは「彼っぽい何か」と感じるようになり、悲しくなりそうです。
人間とは、「思考」なのかもしれません。サイボーグについての議論は、脳が生きているときと、死んだあとで分かれることになるでしょう。
ピーターさんは、まだまだこの先の成果も、現在進行形で発信されていくことになります。これからどんな人生を送られるのでしょう。生きるアート、その生きざまも含めて、非常にアーティスティックです。
でも、1人ひとりの人生に、生きざま、物語があり、それぞれがアートでもあるのだとも思います。そして、社会の一部としてそのアートを生きている。本書は、いろいろな形で勇気をもらえる1冊だと思います。
(構成:泉美木蘭)
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