はあちゅう「自分ゴトの解決が社会のためになる」 ネオヒューマンは現代の生きるアート、希望だ

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彼が体をサイボーグ化して「ピーター2.0」になろうとする過程では、医者に「私を巻き込まないでください」と断られたり、病気が進行していくのを、ただ指をくわえて見ているしかないようなことをすすめられてしまう場面もあります。

これを読むと、常識から外れようとする人に対する反発や圧力は、どの世界でも同じなのではないかと思います。

ベンチャー経営者なら、ピーターさんの困難が、自分と似ていると感じる人もいるでしょう。セクシャリティについて周囲に理解されない悩みを抱えている人なら、社会を変えようと行動しているピーターさんから、感情に訴えかけてくるものを感じるのではないでしょうか。

「愛があるから介護できる」ではない関係

ピーターさんは、パートナーのフランシスさんに介護してもらっていますが、彼は本当にすごい人ですね。お二人の愛情ももちろんあると思いますが、「愛があるからできたんだ」と言われると、それはちょっと型にはめすぎていると思います。そういう意味の「純愛物語」ではないですよね。

私は、フランシスさん自身がもともと献身的で、介護について適性のある人なのではないかと感じました。

例えば、私が寝たきりになったとき、夫は、最初は愛情で接することができると思うのですが、性格的に、ずっと介護し続けることは難しいと思います。そこで「愛があるから介護できるよね」とは言いづらい。ですから、愛と介護は切り離して考えなければならないと思っているのです。

愛というほどの感情はなくても、介護ができる人はいると思います。逆に、愛がある相手だからこそ、つらいと感じる人もいるのではないでしょうか。私は、旦那を愛しているけれど、旦那が難病になった場合、不器用な自分が介護をするのは不安すぎます。愛と能力は別なんです。

育児も似ています。私の夫は子どものご飯をつくったり、洗濯をしたりはしませんが、そこに適性がないだけで、子どもに対する愛がないわけではありません。性格的に、衣食住に関するお世話は苦手だけど、一緒に遊びに行くようなイベントになれば、ものすごく面倒を見てくれますし、積極的に車を出してくれます。私は運転ができないので、とても助かっています。

それを、「愛があるなら全部やってよ」と文句を言うのは違うと思います。愛があっても、できること、できないことは人によって違います。そもそも、愛の表現の仕方も違います。

愛情と言っても、かなり範囲の広い言葉だと思います。私たちは、その大きな言葉でいろんなものを片付けようとしているのですが、家庭によっては、すでに愛が冷めていて、夫を「ただ稼いでくるだけの人」と見なしている場合もあり、決して愛情でつながっているわけではない関係もあります。

ましてや、ALSの介護では、人工呼吸器をつけると2度と取り外せなくなり、一生介護しなければならなくなると聞きます。

家族にとっては、介護が自分の人生になってしまうわけです。ですから、「介護ができない」ということで苦しむことはないと思います。介護が苦手でまったくできないという人もいると思いますし、ものすごく真剣に考えて、気持ちが折れてしまう人もいると思うのです。

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