はあちゅう「自分ゴトの解決が社会のためになる」 ネオヒューマンは現代の生きるアート、希望だ

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その点、フランシスさんは、ご本人が気づいていなくても、そこまでの心理的ダメージを受けない方かもしれませんし、ピーターさんの介護に何らかのやりがいを見出している部分もあるのではないかと思います。

考えてみれば、フランシスさんはたまに会いに行く人で、介護は別の人に任せているという形でも成立するわけです。

フランシスさん自身が関心のある分野だからこそ、共同プロジェクトとして参加し、人生のパートナーとしても見届けたいという気持ちがあるのかもしれません。

サイボーグ・アーティストの問い

読み進めるうちに、「本人」の定義とはなにか、ということについても考えさせられました。

ピーターさんは、自身の思考パターンをAIに認識させ、コミュニケーションにおいてはそれを反映させています。会話の半分はデジタルで補われ、声もデジタル、モニターには彼のアバターが映し出されているわけです。

そうなると、彼の死後にそのアバターが残ったとき、周囲の人々は、ピーターさん本人と話しているのか、アバターと話しているのか、わからなくなってしまうかもしれません。

身近なネットの世界でも、「本人とはなんなのか」と考えさせられる出来事は起きています。

例えば、仮面をかぶったユーチューバー・ラファエルさんは、「二代目ラファエル」を募集したことがありました。ブロガーのイケハヤさんのインスタグラムは、すでに別の人によって発信されています。しかし、フォローしている人たちは、イケハヤさんご本人の投稿だと思っているようです。

また、ひろゆきさん、堀江貴文さんのように、ネットで著名で、この人ならこう答えるだろうなというものが確立されている方々は、その発信がご本人によるものかどうかよりも、まずは「本人ぽい」というイメージ的なところで認識され、拡散されやすくなっています。それはフェイクニュースの問題ともつながっています。

よく話題になるネットの誹謗中傷問題なんかも、直接的な不利益のない匿名でしている人のほうが、実際に会ったことがある人より、その相手を憎んでいることがありますよね。

一方、現実には、こんなことも起こりえます。もしも、私の母が認知症になったとします。やがて、私のことを認識できなくなり、意思疎通ができない存在になってしまったとき、私は、自分のなかに残された「母の記憶」に頼って母を介護することになるでしょう。

でも、「この人は母なんだろうか」「私が母だと思っていた人は、どこへ行ってしまったんだろう」というふうに思うときが来るのではないかと思うのです。

私自身に置き換えてみても、「私」はいったいどこにあるのだろうと思います。全身整形したとき、それは私なのか。サイボーグ化していったとき、体のどの部分が残っていれば私なのか――。

こういった問いを訴えかけてくるのが、ピーターさんという存在そのものです。

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