自らの立場に悩み続けた「芥川龍之介」壮絶な最期 神経衰弱による不眠症、幻覚や妄想知覚も
芥川家は江戸城の茶室を管理した奥坊主の家系
芥川龍之介は、その住まいをとおして、絶えず時代の流れに向き合い続けた文豪だった。下町の家で江戸趣味に親しんだ子供時代から、文化人たちの避暑地軽井沢で社会主義文献に取り組んだ晩年、そして大正から昭和へと激動する時代に対する「ぼんやりした不安」の中、自宅の書斎で自ら死を選んだ最期まで――。
文豪は、1892年、父・新原敏三と母・フクの長男として、東京市京橋区入船町8丁目1番地(現中央区)に生まれた。だが、生後8カ月の頃、母フクが突然、発狂した。そのため、龍之介は、フクの兄・芥川道章の家に引き取られることになった。道章と妻・トモのあいだには子供がおらず、道章の妹フキが同居して人手もあったので、龍之介を育てるにはふさわしい環境だった。道章の家は、江戸情緒を色濃く残す下町、本所区小泉町15番地(現墨田区)にあった。
芥川家は代々、江戸城内の茶室を管理し、将軍や大名たちを茶の湯で接待した奥坊主の家系。江戸時代の本所小泉町付近の地図にも、芥川家の記載がある。さらに、道章の妻・トモは、細木香以の姪だった。
香以は幕末の人で、新橋山城町で酒屋を営んでいたが、俳句や狂歌、書といった多彩な趣味をたしなみ、遊郭でも名の知れた大の通人だった。この香以の生涯には森鷗外も関心を寄せ、史伝『細木香以』(1917)を著している。これをきっかけに芥川は鷗外を訪ね、細木の読みは「ほそき」ではなく「さいき」だと知らせたり、香以の辞世の句を伝えたりした。
18歳の時に新宿へ一家で引っ越すまで、芥川はこの本所小泉町の家で暮らした。その家庭の雰囲気を、芥川は後に『文学好きの家庭から』(1918)に記している。
「文学をやる事は、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。その代り実業家になるとか、工学士になるとか云ったらかえって反対されたかも知れません」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら