実生活も人間失格?没後70余年「太宰治」壮絶人生 名作生む一方、自殺未遂、麻薬中毒と波瀾万丈
青森屈指の富豪の家庭に生まれた
太宰治は、生涯自らの家を建てることはなかった。
「どこに住んでも同じことである。格別の感慨も無い。(中略)どうでも、いい事ではないか。私は、衣食住に就いては、全く趣味が無い。大いに衣食住に凝って得意顔の人は、私には、どうしてだか、ひどく滑稽に見えて仕様が無いのである」(『無趣味』)
衣食住に「無趣味」の太宰が住んだ生涯で最も贅沢な住宅は生家である。太宰治(本名:津島修治)は1909年、青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山414番地、津島家の和室10畳間で生まれた。当時、完成してから2年ほどとまだ新しい豪邸は、1階が11室278坪、2階が8室116坪、庭園などを含めた宅地は約680坪、建築費は約4万円だったという。公務員の初任給が50円という時代であるから、ケタ違いの大金である。
父津島源右衛門は1904年に青森県内の多額納税者番付で4位となっており、金融業を営む津島家は青森屈指の富豪であった。
しかし、太宰の実家に対する見方は冷淡である。
「私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。(中略)この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣きも無い」(『苦悩の年鑑』)
この家は、現在太宰治記念館「斜陽館」として知られ、2004年には近代和風建築の代表例として国の重要文化財にも指定されている。そうした壮麗な造りも太宰にとってはとりたてて注目すべきことではなかった。
ただ、父親の生家である松木家を訪ねた際、新たな面を発見してもいる。
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