実生活も人間失格?没後70余年「太宰治」壮絶人生 名作生む一方、自殺未遂、麻薬中毒と波瀾万丈

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一方、美知子夫人はガスも水道も通っておらず、トタン屋根で夏は畳まで熱くなったということに触れて家賃相応の家だったと見ている。ただ、太宰にとってこうした住宅の不便はあまり問題ではなかった。芸術や学問に理解のある石原家の人々に囲まれた甲府時代を「私のこれまでの生涯を追想して、幽(かす)かにでも休養のゆとりを感じた一時期」(『十五年間』)と振り返っている。

1939年9月、東京府北多摩郡三鷹村下連雀113(現三鷹市下連雀2114)に転居する。6畳、4畳半、3畳の3部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた12坪半ほどの小さな借家で、日当たりのよい新築の家だった。

長女も生まれ、楽しい日々を過ごしていたが・・・

近隣には作家が多く住み、中央線沿線の文士たちが集った阿佐ヶ谷将棋会に参加するなど、楽しい日々を過ごしている。

「先日、井伏さんと多摩川へ、ハヤを釣りにまいりました。(中略)あの日の成績は、井伏氏三十、文藝春秋の下島氏は五十、濱野修氏は四十、私は、三匹でありましたが、それでも私は皆にほめられました。ただいまは、私も親子三人ですから、一人に一匹づつで、ちょうどよかったわけであります」(1941年10月23日竹村坦宛て書簡)

ここには1941年に長女園子が誕生した喜びもあらわれているだろう。

戦中は甲府、青森に疎開し、1946年11月に帰京すると流行作家の仲間入りを果たす。戦後には『ヴィヨンの妻』、『斜陽』(1947)、『人間失格』(1948)といった代表作を次々に書きあげていった。

しかし、その一方で「太宰のような人はもっと都心を離れた、気候のよい、暮らしやすい土地に住んでゆっくり書いてゆく方がよかった」と美知子夫人が言うように、三鷹の地は人との関わりが多すぎた。太宰の生活は急速に乱れていく。

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