実生活も人間失格?没後70余年「太宰治」壮絶人生 名作生む一方、自殺未遂、麻薬中毒と波瀾万丈

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「この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。

(中略)私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の『人間』に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った」(『津軽』)

このように、太宰が見ていたのは住宅そのものではなく、そこに住む「人間」であった。そうした意味で、自らの理解者のいない津島家を「何の趣きも無い」ものと感じていたのだろう。

よき理解者である井伏鱒二との出会い

金木第一尋常小学校、明治高等小学校を卒業した後、1923年、青森中学校入学を機に実家から離れ、遠縁にあたる青森市寺町14番地の豊田家に寄宿した。この年の夏休みに井伏鱒二の『幽閉』を読み、座っていられないくらい興奮したという。

この井伏鱒二こそが太宰のよき理解者となる人物であった。弘前高校時代には同人誌『細胞文芸』をつくり、井伏に原稿を依頼している。1930年、東京帝大仏文科に入学すると同年5月に井伏鱒二と面会し、師事した。こうして終生にわたる2人の関係が始まった。

上京した太宰は共産党のシンパ活動にのめりこんでいく。主な役割は自らの住居をアジトや連絡拠点として提供することであった。3年ほどは戸塚町諏訪、神田区岩本町、大崎町五反田、神田区同朋町、神田区和泉町、淀橋町柏木、八丁堀、芝区白金三光町などを転々としており、刑事の訪問を受けてその日の夜に引っ越すこともあった。

この間に、小山初代との仮祝言をあげており、その生活は次のように記されている。「学校へもやはり、ほとんど出なかった。すべての努力を嫌い、のほほん顔でHを眺めて暮していた。馬鹿である。何も、しなかった。(中略)遊民の虚無。それが、東京の一隅にはじめて家を持った時の、私の姿だ」(『東京八景』)。

1933年1月3日、袴をつけて井伏鱒二宅を訪問。筆名を太宰治と決め、同月に運動との関わりを断った。翌2月には杉並区天沼三丁目741番地に転居している。この家は杉並区清水町24番地に住んでいた井伏の近所であった。次に住むのも天沼1丁目136の借家2階の4畳半と8畳であり、井伏が住む荻窪の地で、第一創作集『晩年』に収録される作品を書き進めた。

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