実生活も人間失格?没後70余年「太宰治」壮絶人生 名作生む一方、自殺未遂、麻薬中毒と波瀾万丈

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しかし、平穏な日々は長く続かない。1935年3月に自殺未遂騒動を起こすと、4月に急性虫垂炎で入院。温暖な千葉県船橋町五日市本宿1928へ転居する。8畳、6畳、4畳半の3部屋で家賃17円、門のところに夾竹桃が植わった家であった。

ここで太宰はパビナール(麻薬)の中毒に陥る。きっかけは虫垂炎の手術の際に鎮痛剤として乱用されたことである。当時、パビナールは1本30〜50銭ほどで手に入った。カレーライス並1皿が15~20銭(1936年)という時代であり、それほど高いものではない。最終的には1日十数本注射するというありさまで、身体は限界だった。

「井伏さん、私、死にます」(1936年9月15日井伏鱒二宛て書簡)という状況に至り、井伏らの説得で東京武蔵野病院の閉鎖病棟に収容される。

薬物中毒から回復して退院すると、入院中に起きていた初代の不倫が発覚、初代と谷川岳で心中未遂を起こした後、離別する。この後、杉並区天沼1丁目213番地鎌滝方に移転するが、井伏の勧めで山梨県河口村御坂峠天下茶屋の2階端8畳の部屋で執筆に専念することになる。

井伏の紹介で見合い結婚

転機は、井伏の紹介で県立都留高等女学校に勤務していた石原美知子と見合い結婚をしたことであった。美知子夫人は太宰のよき理解者となり、生活を支え、太宰の死後はあらゆる資料を収集して太宰の文業を後世に伝えた聡明な人物だ。この結婚式で媒酌人を務めたのも井伏夫妻であった。

太宰は井伏に「結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい」(1938年10月25日井伏鱒二宛て書簡)という誓約書を書き送っている。これを機に太宰は1年弱の間、甲府で暮らした。

沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思われるだろうが、事実は、派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を、「擂鉢の底」と評しているが、当っていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さかさまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。 (『新樹の言葉』)

新居は甲府市御崎町56番地の借家で、8畳と3畳、3畳は障子で2畳の茶の間と1畳の取次とに仕切ってあった。この家について太宰は「何より値が安く、六円銭なので、それが嬉しかった」(『当選の日』)と語っている。

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