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実生活も人間失格?没後70余年「太宰治」壮絶人生 名作生む一方、自殺未遂、麻薬中毒と波瀾万丈

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この時期の太宰は仕事部屋をいくつかもっていたが、その1つが行きつけの小料理屋「千草」(三鷹町下連雀212番地)の2階6畳間だった。そして、その筋向かいの家の2階を借りていたのが、ともに玉川上水に入水することになる山崎富栄である。井伏が訪れ忠告をしたこともあったようだが、戦後の太宰は井伏を避けるようになっていった。

太田静子や山崎富栄と関係をもち、「破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい」とまで言って結婚に尽力してもらった井伏とは顔を合わせづらかった。こうして太宰は、人間関係に押し流されるがまま、最期の時へと突き進んでいく。

そこで考え出したのは、道化でした。それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ1000番に1番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。(『人間失格』)

太宰の危機に周囲も気づいていた

「千草」の増田静江は「先生はいいかたでしたけれどほんとに怖がりんぼでした」と言う。人間を恐れるからこそ関わらずにはいられないという性格が心身を消耗させていった。

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こうした太宰の危機に周囲も気づいていないわけではない。

『人間失格』の連載や『井伏鱒二選集』編纂などで関係の深かった筑摩書房の古田晁は、太宰を御坂峠で静養させる計画をたて、井伏に太宰と御坂峠へ滞在することを依頼している。ただ、戦後の食糧難の時期、食糧を持たずに旅をするわけにはいかない。

古田は郷里の長野に食糧調達に赴き、帰ってきたのが6月14日。太宰の遺書が発見された日であったという。太宰の遺体が見つかった6月19日は桜桃忌と名づけられ、現在も、三鷹の禅林寺に多くの人々が集っている。

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