自らの立場に悩み続けた「芥川龍之介」壮絶な最期 神経衰弱による不眠症、幻覚や妄想知覚も
こうした空気の中で、少年時代の芥川は、江戸以来の大衆的な絵入り小説本、草双紙に親しみ始め、徐々に滝沢馬琴、式亭三馬、近松門左衛門といった江戸の作家たちを本格的に読みこなすようになる。
読書の一方、近所の遊び場も、江戸情緒を感じさせるものだった。小学生時代の芥川は、両国の回向院の境内でよく遊んだ。友達と石塔を倒す悪戯をして怒られたりもしたが、その墓地には、江戸の戯作者・山東京伝の墓や、有名な鼠小僧治郎吉の墓があった。
また、身体の弱かった芥川少年が水泳を練習したのは、隅田川の下流、いわゆる大川端のあたりだった。芥川は、随筆『大川の水』(1914)で「大川の水の色、大川の水のひびきは、わが愛する『東京』の色であり、声でなければならない」と言っている。「自分は大川あるが故に、『東京』を愛し、『東京』あるが故に、生活を愛するのである」。
下町情緒豊かな大川の流れに臨む本所両国付近。その中でも、とりわけ深く江戸の教養を伝える「文学好きの家庭」芥川家――。そこにこそ、後の文豪の原風景があったのだ。
田端の新築の家が終生の住まいに
1910年、芥川が東京府立第三中学を卒業して第一高等学校(一高)に入学した年の秋、一家は新宿2丁目71番地に転居した。芥川の実父、新原敏三が支配人を務める牛乳販売業者、耕牧舎の経営する牧場の一角である。2年生になると、芥川は本郷の一高の寄宿舎に入るが、バンカラ風の寮生活が肌に合わず、1年間で退寮している。
1913年、芥川は東京帝国大学英文学科に進学し、翌年には仲間と同人雑誌『新思潮』を創刊する。その秋に一家が引っ越したのが、北豊島郡滝野川町字田端435番地(現北区田端1-19-18)の新築の家だ。この家が、文豪終生の住まいとなる。
芥川は、大学を卒業した1916年から1919年まで、横須賀の海軍機関学校の英語教師を務めていた。この時期の芥川は、初め鎌倉の洗濯店の離れを借りていたが、後に勤務地により近い横須賀の下宿に移っている。1918年に塚本文と結婚すると、鎌倉大町字辻の小山別荘内に新居を定める。
しかし、執筆活動に専念するため機関学校を退職した1919年、再び芥川は妻とともに養父母のいる田端の家に戻る。以降、旅行や療養中の旅館やホテルでの生活を除き、芥川はこの田端の家に住み続けることになった。
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