自らの立場に悩み続けた「芥川龍之介」壮絶な最期

神経衰弱による不眠症、幻覚や妄想知覚も

このころ、芥川は田端の家の書斎を「我鬼窟(がきくつ)」と名づけた。「我鬼」は芥川の雅号で、自我の鬼、エゴを意味する。エゴというテーマは『羅生門』(1915)以来、芥川の多くの小説の底を流れているものだ。

このとき芥川は、一高時代の恩師である菅虎雄に揮毫を頼んだ「我鬼窟」の額を書斎に掲げた。菅の本業はドイツ語学者だが、白雲の雅号をもつ書家でもあった。芥川の第一短編集『羅生門』(1917)の題字も、菅によるものである。

我鬼窟時代の芥川は、すでに文壇の流行作家になっていた。面会日の日曜になると、小島政二郎、佐佐木茂索、瀧井孝作、南部修太郎といった後進の作家たちが、芥川の家に集まってきた。

多忙で来客を断りたいときなど、芥川は「忙中謝客」の札を門戸に掲げることもあった。その札には「おやぢにあらずせがれなり」というただし書きが付いていたが、そこからは養父母と芥川夫婦がひとつの住宅に住んでいた、2世帯同居の生活状況が伝わってくる。 

中国旅行に出かけて体調不良に

1921年、芥川は大阪毎日新聞の海外視察員として、4カ月にわたる中国旅行に出かけた。中華民国の成立から10年、当時の中国は帝国主義列強に対する民族運動が盛り上がりを見せ、激動の時代を迎えていた。

だが、そうした歴史的な中国の動きをよそに、芥川は上陸早々、肋膜炎にかかり、上海の里見病院に3週間にわたって入院する。中国各地を回って帰国してからも、芥川の体調は優れなかった。胃アトニーや痔に加え、神経衰弱も悪化していった。この時期、『藪の中』や『将軍』といった名短編を次々と発表しつつも、芥川は心機一転の必要を感じていたのである。

1922年、芥川は書斎の額を「我鬼窟」から「澄江堂」に掛け替えた。その文字は、芥川の主治医下島勲によるものだった。下島は、空谷の号を持つ俳人兼書家でもあった。「我鬼」から「澄江」へ、落ち着いた、澄みわたった心境への芥川の憧れは文字の意味からも明らかだが、額の字の書風も、こうした芥川の憧れを映し出している。あくの強い力の籠った白雲の字から、すっきりと柔らかみを帯びた空谷の字へ――。

このように心機一転を図ろうとしていた芥川に、思いがけない危機が訪れた。1924年の夏、軽井沢のつるや旅館の離れに滞在中のことである。その夏、軽井沢での芥川の交友は多彩だった。隣室に泊まっていた室生犀星をはじめ、谷崎潤一郎、山本有三、堀辰雄といった文豪たちと芥川は交流した。浅間山の煙が見える部屋からの眺めも、芥川は気に入っていた。

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