人が見たものより「触った」ものを信頼する不思議 こころの起源が皮膚を世界にさらしたという事実

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さて、この「私」の意識をもたらす「失われた時」への覚醒には、3つのきっかけがある。有名なのは「ハーブティーに浸したマドレーヌの味」だ。小説の最初のほうで登場するため、多くの人が知っている。少年時代を過ごした別荘地での記憶がすみずみまでよみがえる。

しかし、もう2つのエピソードは皮膚感覚なのだ。

皮膚がよみがえらせる記憶

パーティーの帰り、不ぞろいな敷石を踏む。その瞬間、ベネチアのサン・マルコ洗礼堂で、やはり不ぞろいなタイルを踏んだときの記憶が現れ、ベネチアに滞在した際の光景が生き生きとして立ち現れる。

もう1つは、海辺のリゾートでの記憶だ。ここで「私」の恋愛が始まるのだが、ホテルで身体を拭くタオルの糊がききすぎていた。その記憶は「私」のこころの奥底に眠っていたのだが、パリの貴族の晩餐会で提供されたナプキンがやはり糊のため固かった。そこから海辺で過ごしたときが「外的知覚につきまとう不完全なものをとり払われ、現実を離れた純粋なものとなって私の胸を歓喜でいっぱいに膨らませたのである」(前出)。

これらの「私」の経験は、皮膚感覚が、人間の無意識の奥底に潜んでいた「純粋な」記憶を見出す重要な役割を担うことを示している。そしてプルーストは1人の人間にとって、最も貴重なものは、そのようにして「失われた時」からよみがえった記憶であり、そしてそれが文学、芸術の本質であるとする。

皮膚感覚は、なぜ無意識をよみがえらせることができるのだろうか。

ぼくは、人間の感覚の中で、嗅覚、体性感覚、そして皮膚感覚については言語で語りえないからではないかと考えている。人間の意識は言語と強く結びついている。人間の意識はつねに言語で表現ができ、言語で表現しうることが意識だと考える。ヴィトゲンシュタインによる哲学の定義がそれにかさなる。

「哲学は、語りうるものを明晰に表現することによって、語りえぬものを示唆するにいたる」

「およそ考えうるものは、ことごとく明晰に考えうる。いい表しうるものは、ことごとく明晰にいい表しうる」(『論理哲学論考』藤本隆志・坂井秀寿訳、法政大学出版局)

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