「経団連型企業」の生き残り策
「積極財政、金融引き締め、円高」政策がとられていたら、日本経済の姿はまったく違うものになっていただろう。地方への公共投資ではなく、都市の開発投資で民間の活力を利用できていれば、将来の成長のためのインフラが残っていたはずだ。
利子率が上昇して円高となり、輸出が減って、産業構造は変革を余儀なくされたはずだ。アメリカのようにITや金融が強くなったかどうかはわからないが、製造業の比率が低下し、サービス産業の比率が高くなっていたことは間違いない。そうした産業構造なら、経済危機によってあまり落ち込まなかったはずだ。賃金も下落しなかったはずである。
このような方向は、明らかに日本人の生活を豊かにするものであった。そして実現可能なものであった。それにもかかわらず、なぜそれがとられなかったのだろうか?
経済政策の基本的方向を決めたのは、製造業の輸出産業の要請だ。もう少し明確に言えば、「経団連型企業」の要請である。これらは、高度成長の実現に寄与した企業だ。
1990年代の初めに、これらの企業は、新興国の台頭と国内販売の減少に直面していた。とりわけ深刻だったのが、電機産業、自動車産業、鉄鋼産業だ。それに対処するため、外需を求める必要があった。また、新興国と競争するために、為替レートを円安にする必要があった。
これらの企業がビジネスモデルを転換できなかったのは、日本企業の構造による。
具体的には、高度成長期に企業を発展させた人たちが企業経営の実権を握っていたからだ。そうした人の立場から言えば、かつて自分が担当した分野を残そうとするのは当然だ。仮に新しい分野に進出すれば、社内の実権を若い人たちに奪われてしまう。
ITを取り入れれば、若い世代の下克上を招くだろう。高度成長期型ビジネスモデルの継続は、日本型企業の社内力学がもたらした必然的結果だったのである。