豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体 「本能寺の変」後に歴史に残る城を多く築いた

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工事は天正14年2月21日に始まっている。大坂城の第2期工事と同時併行の形だったので、宣教師の報告によると、秀吉は1カ月のうち10日から15日を聚楽第の工事現場に足を運び、残り10日を大坂城の工事現場で督励していたという。これでみると、聚楽第のほうに力を入れていたことがうかがわれる。

この後、聚楽第は「秀次事件」の後に破壊されてしまうので、地上にその痕跡はないが、東は猪熊(いのくま)通り、西は千本通り、南は下立売(しもたちうり)通り、北は元誓願寺通りで、正方形ではなく、南北にやや長い長方形であった。

全体の西北隅の突き出た部分が北の丸で、そこに天守が築かれていた。その天守の形は三井文庫所蔵の「聚楽第図屏風」によってうかがわれ、望楼式の天守であった。なお、聚楽第の遺構として、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門などが知られている。

そのほか、側室である淀殿のために築いた淀城や、天正18(1590)年の小田原攻めのとき、陣城として築いた石垣山城がある。石垣山城も短期間に築いたということで石垣山一夜城の名があるが、臨時の陣城とはいいながら関東ではじめての総石垣の城であった。

肥前名古屋城は驚異的なスピードで完成

この後も秀吉の城づくりは続き、天正19(1591)年10月10日から朝鮮出兵のための前線基地として肥前名護屋城の築城をはじめている。これは翌年4月にはほぼ完成したというので、そのスピードにはおどろかされる。本格的な天守以下、城門、櫓(やぐら)も多数築かれている。

そして、最後の築城となるのが伏見城であるが、なんと異なる伏見城が2つあったのである。秀吉は天正19年暮れに関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第も譲ったので、はじめは隠居所として、翌文禄元年8月に築城を開始している。

当初の構想が隠居所だったことは、『多聞院日記』に「伏見において、太閤隠居城を立つるとて、ことごとしき普請」とみえることからも明らかである。このときの城は伏見指月(しげつ)城とよばれている。

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