豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体 「本能寺の変」後に歴史に残る城を多く築いた

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天下普請は何も家康の創見ではなく、すでにみたように秀吉も築城にあたって諸大名に助役を命じていたが、家康の場合が特に顕著だった。そのねらいはいくつかあげられるが、第1は、関ヶ原合戦後、いまだ去就を決しかねている外様(とざま)大名に対し、最終的な服属の決断をせまることになった。つまり、天下普請に応じて助役を務めるか否かが徳川家に対する忠誠心の踏み絵とされたのである。

さらに、第2として、家康が慶長8(1603)年に征夷大将軍に就任し、江戸幕府が開かれると、諸大名にとって、助役に出ることは相当な経費の負担であったわけで、当然のことながら諸大名に金を使わせ、幕府に対して抵抗する財源を無くさせようということも計算されていた。

第3は、それとちょうど裏腹の関係になるわけであるが、幕府財政負担の軽減となったという点も落とせない。

そしてもう1つ忘れてならないのが第4の理由、大坂方封じ込め政策として、大坂城包囲網との関係である。

豊臣政権が復活する可能性もあった

家康が征夷大将軍になったといっても、まだ大坂城には秀吉の遺児、秀頼がいた。家康が亡くなれば、秀頼が関白となり、豊臣政権が復活する可能性もあった。そこで家康は、天下普請で大坂城包囲網づくりを進めている。具体的には、近江膳所(ぜぜ)城、丹波篠山(ささやま)城、近江彦根城、丹波亀山城、それに9男義直のために築かせた尾張名古屋城もその一環とみられる。

彦根城の場合は「徳川四天王」の1人井伊直政の子直勝の城であるが、慶長8(1603)年からはじめられ、伊賀・伊勢・美濃・飛驒・尾張・若狭・越前の7カ国で12大名が助役を命ぜられており、慶長14(1609)年からはじめられた丹波篠山城の場合はさらに多く、西国15カ国で、藤堂高虎・池田輝政・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長ら20余名の大名が助役を命ぜられているのである。

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