豊臣秀吉が「大坂城より力入れて造った城」の正体 「本能寺の変」後に歴史に残る城を多く築いた
ところが、築城途中の文禄2(1593)年8月3日に、淀殿が秀吉の2人目の男子拾(ひろい、後の秀頼)を産んだことで、この伏見指月城の役割が、隠居城ではなくなった。
秀次を牽制する意味もあり、本格的な城づくりとなった。そして、この伏見指月城は、慶長元(1596)年閏7月12日深夜から13日に近畿地方を襲った大地震によって倒壊してしまったのである。
そこで、秀吉は地盤のゆるい、低地の伏見指月城をやめ、伏見指月城より北東およそ1キロメートルの高台にある木幡(こはた)山を新しい城地として、閏7月15日から築城工事がはじまっている。秀吉にとって幸いだったのは、伏見指月城では地震によって建物は倒壊したが、火災にあっていなかったので、伏見木幡山城に再利用できたことである。翌慶長2(1597)年5月4日には完成している。
秀吉は、その後、大坂城と木幡山の伏見城を行ったり来たりしているが、晩年は伏見で生活することが多く、翌慶長3(1598)年8月18日に息を引きとったのも伏見城だった。
江戸城を二十数回にわたって拡張・修築した家康
家康といえば何といっても江戸城である。天正18年(1590)の秀吉による小田原攻め後の論功行賞によって、それまでの駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から関東8カ国、戦国大名北条氏の遺領への転封で、駿府城から江戸城へ移ることになった。
江戸城は太田道灌の城だったことで有名で、その後、北条氏の小田原城の支城として江戸城があったが、家康は戦国期の江戸城と同じ場所ではあるが、修築といったレベルではなく、全く新しい構想のもとに築いている。
築城工事が開始されたのは天正19(1591)年4月からで、市ヶ谷・四ツ谷・赤坂に至る外郭の堀と門まで完成したのは寛永13(1636)年のことだった。天正19年から寛永13年まで、実に二十数回にわたって拡張・修築工事が進められていたのである。しかも、それは天下普請として続けられていた。家康は、この江戸城だけでなく、駿府城や名古屋城も天下普請によって築かせているのである。
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