「満たされるほど不自由になる」と老子が説く真意 論語と老子に学ぶ「欲」との正しい向き合い方
最近の若い人は、ギラギラとした金銭欲や出世欲がなくなってきている、という話はよく耳にします。その一方で、働く上でのやりがい、ワクワク感、自分が社会に貢献できている感覚を重視する傾向が強まっています。お金や地位など「目に見えるもの」よりも、「やりがい」や「ワクワク感」といった「腹の中にあるもの」への価値が高まっているのです。そういう意味では、「時代の空気」は老子的な思想を求めているのかもしれません。
仏教の世界では禁欲がよしとされ、論語では決して「利」を否定することはなく、しかしそのプロセスを非常に重んじる。強いて言えば、老子はその中間的な位置づけとでも言うのでしょうか、「ほどほど」の価値についても論じています。
たとえば、老子にはこんな言葉もあります。
持してこれをみたすは、そのやむるに如かず。揣してこれを鋭くするは、長く保つべからず。金玉の堂に満つるは、これをよく守るなし。
(満ち足りた状態を保ち続けようとするのはやめた方がいい。刃物を鍛えて、鋭くしようとし続けたら、切れ味は保てない。金銀財宝が部屋にいっぱいあったとしたら、それを守り続けることなどできない)
老子はそう語っています。これもまた「欲望」に関する、大事な1つの視点ではないでしょうか。
「満たされる」ほどに不自由になっていく
たとえば、コップに水をいっぱいまで満たしたとします。「その状態で100メートル走ってくれ」と言われたら、どうでしょう。まともに走ることができるでしょうか。たかだかコップ一杯の水で、人間はこんなにも不自由になってしまうのです。
あるいは、現金や金塊、宝石などをいっぱい自宅に隠し持っている人は、安心して旅行に行くことができるでしょうか。おそらくは気になって、おちおち旅行を楽しんでなどいられないでしょう。欲望を満たすのもいいけれど、それをいっぱいまで満たしてしまったら、結局、不自由になってしまう。そんな真理を老子は説いています。
揣してこれを鋭くするは、長く保つべからず。
という部分は「ほどほど」(最適)の見極めについて語っています。実際に刀鍛冶たちに話を聞いてみると、ハンマーで何度も叩いて刃物を鋭くしていくのですが、「ここが限界」というところを見極めるのが一番難しいと言います。「もう少し打てば、さらに鋭くなるのではないか」と思い、つい次を打ってしまうのですが、結果として刃物がぐにゃりと曲がってしまう。そんなこともよくあるそうです。
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