しかし一方で「甲子園」は最高の舞台でもある。学校や地元は、すべてをかなぐり捨てて「栄冠」を目指すことを求める。エースを温存して敗退すれば非難の声が上がりかねない。
2019年の夏の地方大会で、この世代最高の投手と言われた大船渡の佐々木朗希(現千葉ロッテ)が投球過多を理由に決勝の登板を回避し大船渡が敗退したときには、国保陽平監督の決断を「英断」と評価する声があった一方、「(甲子園出場という)千載一遇の機会を逸した」として地元を中心に、監督への非難の声が殺到した。
現代の高校野球では、好投手を擁する監督は、つねにこうした「板挟み」になるリスクをはらんでいるのだ。
「球数制限」が本来果たすべき役割
本来「球数制限」は、現場の指導者がこうした「板挟み」を回避するために役立つはずだった。「そういうルールだ」とすることで、それ以降の議論は霧消したはずだ。いわばリミッターである。しかしそのリミッターが「1週間500球」と、あまりにも緩すぎたために、実効性がないうえに指導者に厳しい判断を迫る結果となっている。
高速道路の速度制限は「それ以上のスピードを出せば事故のリスクが高まる」という速度に設定される。「100㎞/h」「120㎞/h」という制限速度の表示を見れば、ドライバーも速度を緩めようとする。しかしその速度制限が「200㎞/h」だとすれば、「200㎞/hまで踏み込める」と思うドライバーから、「それでも安全運転でいこう」と思うドライバーまで判断はさまざまに分かれる。実質的に速度制限の意味はなくなる。
日本高野連が定めた「1週間500球」という基準は、「球数制限」という意識を高校球界に植え付けるという点で一定の意味はあったが、さまざまな解釈が可能なために高校野球の現場に混乱をもたらしかねない。また指導者に無用のプレッシャーを与えかねない。端的に言えば「悪法」だと言えよう。
今夏の甲子園は、春とは異なり地方大会がある。各都道府県大会の段階から「1週間500球」に迫る球数を投げる投手が続出するはずだ。そんな中で本来、投手の健康を守るはずの「球数制限」が、「500球までは大丈夫」という「お墨付き」に変質しないかという危惧さえ抱く。
現在の「球数制限」は、3年間の試行期間を経て2023年度から正式に決定される。「抑止効果」がほとんどない「1週間で500球」という基準は見直して、1試合当たりの上限の投球数と登板間隔を具体的な数字で決めるべきだ。それは選手を守るだけでなく、指導者を無用のプレッシャーから解放することにもなろう。
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