幕府崩壊を予見した渋沢栄一がとった仰天行動 実業家としての土壌を作ったヨーロッパの経験

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埼玉県深谷市にある渋沢栄一像(写真:MORIKAZU/PIXTA)
攘夷から一転、一橋家の家臣として幕府を支えることになった渋沢栄一。財政再建の手腕をふるうも、一橋慶喜の将軍就任により、幕臣の末端の身となってしまう。鬱々(うつうつ)とした渋沢は「ここを去るより仕方がない」と再び、浪人になることを覚悟する。そんなとき、慶喜は渋沢の葛藤を感じ取ったのか、パリ万博への随行を命じた。短期連載第5回は、栄一の価値観を変えた、パリでの経験をお届けしたい。
<これまでのあらすじ>
父の手伝いで14歳のときに始めた藍玉の買い付けでは、製造者をランク付けし、競争心をあおる試みを取り入れるなど、早くから商才を発揮していた渋沢(第1回)。多感な青年期に従兄弟の尾高惇忠やその弟・長七郎、渋沢喜作(成一郎)と出会い、攘夷思想に染まっていく(第2回)。「外国を打ち払うしかこの国を救う手立てがない」と、高崎城の襲撃と横浜の焼き討ちを決意するが、長七郎の意見により計画は頓挫(第3回)した。
その結果、路頭に迷うことになった渋沢だが、過去に培った人脈によって一橋家に仕官。一橋慶喜(のちの徳川慶喜)に重用され、一橋家の財政再建を進めた(第4回)。そして慶喜が第15代将軍となると、将来性を買われ、パリ万博に随行する。

「徳川の政府はもう長いことはない」

急遽、パリ行きが決まった渋沢栄一。きっかけは、パリ万博であった。各国の皇帝や国王が集まるなか、日本からは徳川慶喜の弟・昭武の参加が決定。徳川慶喜の推薦によって、随行メンバーに渋沢も選ばれたのである。

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「ぜひお遣わしください。どのような苦労も決して厭(いと)いません」

突然の話にもかかわらず、その場で快諾した渋沢。喜びで浮ついていたわけではない。運命をともにしてきた、いとこの渋沢喜作にパリ行きが決まった経緯を報告したうえで、冷静にこう話した。

「徳川の政府はもう長いことはないから、亡国の臣となることは覚悟をしておかなければならない。もちろんこれは海外にいたからといっても同様である」

攘夷の思いを捨てて、徳川幕府に身を寄せたが、その幕府が滅びようとしている――。一橋家で実力が買われようと、予想外のパリ随行が命じられようと、渋沢は大局観を失うことはなかった。

いつも全体を見通しながらも、それぞれの局面では理想に拘泥することなく、より人生経験を積めそうな道を選択してきた渋沢。パリ滞在という絶好の機会から多くを学んだことは言うまでもない。

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