「呪怨」をつくった清水崇の粘り強く快活な人生 群馬生まれの少年が描いた妄想が世界に届いた

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そんなある日、両親が送ってくれていた群馬県の地方新聞『上毛新聞』を読んでいると、映画のスタッフを募集しているのを見つけた。

同郷の小栗康平監督が手がける『眠る男』という映画で、群馬県が製作に関わった映画だった。地方自治体が映画製作をするのは全国的に初めての試みであり、話題になっていた。

「すぐに問い合わせしました。とにかくバイトをやめて、いったん、群馬県に戻りました。ただ地元ではあるんですが、一度も行ったこともない山奥が現場でした」

撮影期間は1年以上……。時には季節待ち1カ月という、かなりの大作だった。

スタッフは、中之条町の山奥にある廃校で合宿することになった。清水さんの最初の仕事は、閉鎖したホテルから畳やベッドをもらってきて、それを組み立て、合宿施設を整える作業だった。

「なるべく画や芝居に関わる現場に近づきたいのですが、そうそうたやすくなく、お茶くみから何からいろんなことをやりました」

最終的に、前任者がやめてしまった小道具(俳優の身の回りや映画で使う小物をそろえる仕事)の担当についた清水さんだが、直属の先輩スタッフが非常に厳しい人だった。怒鳴る、殴る、蹴る、と現在のモラルでは許されない暴力的な指導をしていた。清水さんももちろん手厳しい目にあっていた。

「ある日、先輩に

『清水、お前の実家に電話しておいたぞ』

って言われたんです」

聞けば先輩は、清水さんの家に電話をして清水さんの母親に、

「お宅の息子さんに厳しくあたっているけど、どうやらこの仕事に向いていないと思う。お母さんから辞めるよう伝えてくれ」

と言ったという。

当然、清水さんのお母さんは心配した。

「そのとき、人生ではじめて他人に殺意を持ちましたね。

『お父さんお母さんごめんなさい。僕は人を傷つけてしまうかも……』

って本気で思いました。しかし、同時にその先輩も映画監督志望なのは知っていたので、

『絶対にこの人より先に監督になってやる!!』

と思ったし、何が何でも最後まで辞めずにすがり付いてやる!と覚悟できました。そう覚悟できたのは、今思えばよかったですね」

結局、清水さんはクランクアップまでその先輩の下について働いた。

小道具スタッフから助監督へ

『眠る男』の撮影終了後、京都を引き払い、上京した清水監督は小道具のスタッフとしてTVドラマや映画の現場に呼ばれるようになったが、本来は監督志望のため、演出部(助監督)を望んでいた。

「方々で『本当は演出部志望です』と話していたのですが、最初に助監督として呼んでくれたのは、前述の先輩でした。ゲッと思いましたけど、引き受けました。やはり、その先輩は厳しすぎて、途中で辞めてしまう人ばかりで、なかなかついてくる人がいなかったみたいです。僕は曲がりなりにも最後まで辞めなかったので、声がかかったみたいです。結局その先輩の下で2回助監督をやりました」

現在の映画業界のシステムでは、助監督をいくら経験しても監督になれる保証はまったくない。

監督できるチャンスをつかむため、別の勉強もしたいとチラシで見かけた映画の講座を受けてみることにした。黒沢清さんなど現役で活躍している映画監督が講師を務める10カ月ほどの講座だった。一般人の受講生も受け入れ、講義は夕方からのシステムだったので、助監督業をしながら通うことができた。

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