「呪怨」をつくった清水崇の粘り強く快活な人生 群馬生まれの少年が描いた妄想が世界に届いた

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最初はしまったと思った清水さんだったが、映画館を出る2時間後には

「僕もE.T.と友達になりたい!!」

と思っていたという。

「たまたまですけど当時の僕と同い年の10歳の少年が主人公だったのも、引き込まれた理由の1つでした。すごく感情移入ができたんですね。

繰り返し見たくて、親戚の叔父さんに、

『まだ見れてないんだよね』

ってウソをついて、連れて行ってもらったりしました」

買ってもらった300円のパンフレットを端から端までくまなく読んだ。

「パンフレットに映画には出てない偉そうなヒゲのオジサンが載っているのを見つけました。それがスティーブン・スピルバーグ監督でした。

『こんなすごい映画を作った大人が見えないところにいるんだ!!』

と、そのとき初めて映画監督という職業を意識しました」

『E.T.』はテレビではなかなか放送されなかった。上映が終わってしまったら、『E.T.』を見ることは難しくなる。

清水少年は、なんとか自分の記憶を書き留めようとした。映画の記憶が鮮明なうちに、映画のサントラレコードをかけながら、

「あのシーンはこうで……ああで……」

と考えながら絵を描き、台詞を書き出したりしていた。

「描いていると、パンフレットに載っているスチール写真と、映画のシーンでは絵が違うことに気がついたりしました。そんな“一人遊び”をしながら、自然と映画における“絵コンテ”の作業を学びました」

当時は映画がなかなか自由に見られない時代であり、また手軽に映像が撮れない時代だからこそ、清水さんは鍛えられたと言えるだろう。

今とはまったく違う不便さの中で

「あの頃は、今とはまったく違う不便さが創作意欲を駆り立ててくれました。でも今の人は若い頃から映像を撮るという行為に慣れ親しんでいて、僕らの世代とはセンスが違いますよね。率直にうらやましいと思います。

若いときにしか作れない作品ってあるんですよ。手軽に映像を撮れる時代だからこそ、出てきている才能ある人たちもたくさんいます」

スティーブン・スピルバーグという、ある意味“どストレート”な映画監督から入った清水さんだったが、それからはさまざまな映画を見るようになった。

『ブレードランナー』『マッドマックス』など当時はやっている映画はもちろん見たし、ジャッキー・チェン作品にハマり、そこから1世代前のブルース・リー作品も見た。

そして中学校に進学すると、父親がビデオデッキを購入した。当時は版権が安いホラー作品がたくさん出回った。

友達から半分無理やり『悪魔のいけにえ』『死霊のはらわた』『ゾンビ』などを見させられた。それらは名だたる名作であり、いつの間にかホラー映画も大好きになっていた。

高校時代はいったんラグビー部に入ったが、毎日時間を取られるのが嫌で退部した。美術部、漫画研究部、演劇部、とさまざまな部活に入りつつ、実際には遊んでいた。

学祭では自ら映像制作を提案し、当時流行ったTV-CMのパロディーをクラスメートと作って教室でお披露目したり、舞台で映画の主題歌を歌ったりもした。

芝居の勉強をしたいと、芸能事務所を受けて所属し、レッスンを受けたりもした。その過程で知り合った人と東京に映画を見に行くなど、活動的な日々を過ごした。

「大学は行く気なかったんですが、映画や芝居を勉強できる専攻がある大学があると知って進学しました。大阪の大学で、演劇の専攻ができてまだ3年目の若い学部でした」

次ページ大学では芝居の基礎を学ぶ
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