渋沢が17歳のときのことである。当時、祝い事などの行事があると、岡部藩の領主は「御用達」という名目で領地別に借金をした。だが、それは返済されることはなく、事実上、年貢のようなものだった。渋沢の村にも借金の額が割り当てられ、渋沢の父は強制的に領主に金を貸さなければならなかった。
ある日、渋沢の父が、岡部藩の藩庁が置かれた陣屋に呼び出される。しかし、父は用事で行くことができないため、渋沢が代理で足を運ぶことになった。「御用の内容を聞いてこい」と父から言われた渋沢。代官から金額を伝えられると、こう言った。
「父に申し聞いてから、さらにお受けに参ります」
しかし、代官はその場で、金銭を受け取ろうして引き下がらない。
「父に申し聞くなどと、そんなわからぬことはない。その方の財産で500両くらいは何でもない。すぐに承知したという挨拶をしろ」
代官からののしられても折れなかった
相手が子供だからと甘く見たのだろう。高圧的な態度でねじ伏せようとしたが、渋沢はどれだけ代官からののしられても、折れることなく断って、陣屋を後にしている。
「そもそも官職を世襲するという徳川政治から、このような無礼な代官が出てくるのではないか!」
帰り道、渋沢は受けた屈辱を思い返し、徳川家という強大な権力への反骨精神を燃えたぎらせたという。
反骨精神といえば、こんなエピソードもある。渋沢はのちに大蔵省から声がかかり、初めは断っていたものの、次官の大隈重信から説得されて、引き受けることになる。それにもかかわらず、大蔵省内からは渋沢の採用に反発の声があがったという。
省内の反発を知って、渋沢はますます燃えたらしい。貨幣制度や禄制の改革や鉄道の敷設など、矢継ぎ早に改革を行い、周囲の評価を改めさせている。闘志あふれる渋沢らしいエピソードだ。
実業家として大空に飛び立つ――。その資質の片鱗を青春時代にすでに見せていた渋沢。だが、やがて、価値観をまるごとひっくり返すような、大きな挫折を経験することになるのだった。
(文中敬称略、第2回に続く)
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【参考文献】 - 渋沢栄一 、守屋 淳『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)
- 渋沢栄一『青淵論叢 道徳経済合一説』 (講談社学術文庫)
- 幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)
- 木村昌人『渋沢栄一 日本のインフラを創った民間経済の巨人』 (ちくま新書)
- 橘木俊詔『渋沢栄一』 (平凡社新書)
- 岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)
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