「その無縁仏の出たときは、およそ何年ほど前のことでありましょうか?」
15歳の渋沢栄一は、さきほどから祈祷を始めた女性にそう尋ねた。「この家にたたりがある」という親戚が家に怪しげな連中を連れてきたのだが、どうにも信じられなかった渋沢少年。祈祷の間、不審なところはないかとじっと観察したうえで、「無縁仏がたたっている」という相手の言葉に食いつき、その時期を確認したのである。
「およそ50、60年より前である」と祈祷する女性が答えれば「それはいつの年号の頃ですか?」とすかさず質問。「天保3年の頃である」という答えを引き出すと、「それならば23年前のことですね」と間違いを指摘して、祈祷を信じ込むほかの家族を前にこう言った。
「無縁仏のいる、いないが、はっきりわかるような神様が、年号を知らない訳はないはず。こういう間違いがあるようでは、信仰も何もまるでできるものじゃない」
そう言って、祈祷師たちを追い返してしまった。このとき、渋沢の姉は病に苦しんでおり、家族も皆、わらにもすがる気持ちで祈祷に頼った。そんな中、最も若い渋沢だけが、冷静に事態を見守り、家族が間違った方向に向かうことを一人で阻止したのである。
状況に応じて合理的な判断をするリアリスト
実業家はリアリスト(現実主義者)でなければ、経営は立ち行かなくなる。その点、渋沢は状況に応じて、合理的な判断をすることに長けていた。大阪紡績会社の経営では、欧米で新しい技術が台頭すれば、工場の機械を一新するという大きな決断もいとわなかったし、原料に安い輸入品を用いるという当時は画期的なコストカットにものぞんでいる。
極めて合理的な渋沢の判断力は、祈祷師を論破して撃退した15歳の頃にすでに発揮されていたのだった。
合理性に長けた渋沢だったが、それだけでは、実業家の巨人として活躍するほどまでにはならなかったに違いない。会社の経営において、ただ合理性のみを追求すれば、人心は離れていく。経済を動かすのは人である。渋沢はそのことも少年時代からよく理解していた。
1840(天保11)年、渋沢は現在の埼玉県深谷市の裕福な農家の長男として生まれた。商売と剣術に長けた者が多いのが渋沢家の特徴で、渋沢もまた文武両道を成すべく、育てられた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら