――最初はドキュメンタリーでのオファーだったそうですね。
そうです。「肉のドキュメント映画を撮ってくれ」というお話だったんですが、僕はそれをお断りしたんです。元々テレビで「肉専門チャンネル」や「取材拒否の店」をやってきた僕にとって、「今、あるものをまとめてください」というようなことなので。それではモチベーションが湧かなかった。
――確かにテレビ番組の延長になってしまいます。
すると。「断るだろう」くらいの気持ちで、「じゃ本を書きますか?」と来たんです。「えっ? 本ってどういうこと?」「松竹ですからストーリー性のあるもので」ということで、原作を書くことになった。
ただしその本を書いているうちにどんどん時間が経ってしまった。常に「企画が消えちゃうんじゃないか?」という中で、その炎を消さないようにやりとりをし続けていったら、映画を撮ることが実現できたというわけです。
――映画監督デビューが、メジャー系の全国公開作品というのもすごいなと思うのですが。
映画の扉を開けようと思ってこの世界に入ったわけですが、正面から入ろうとしたらその扉は絶対に開かなかったと思います。でも僕は違うところで人脈を作り、人間力をつくり、お笑いの仕事も一生懸命やって。業界の方、スポンサーの方などいろんな人と出会ってきた。映画以外のことをやったから、映画を作るというところまでいけたんだと思います。
何事も突き抜ければビジネスになる
――結果として蒔いていた種が花開いた。
そうです。でも僕はただ遊んでいただけなんですよ。やりたいことをやって、突き抜けただけ。黒澤明監督は、映画の構想を寝る時や、文章を書いていた時に泊まっていた石原っていう京都の旅館の親父さんに「突き抜けろ」と言っていたそうなんですよ。「変なヤツ」とか、「アイツはなんだ」と言われていても、何事も突き抜ければそれがビジネスになるんだと。
クワガタを採りに行く。世界中のお肉を食べ歩く。白トリュフを掘りに行くとか、普通の人がやらないことに興味を死ぬほど持つのは、探究心だと思いますね。時計が好きだから時計を勉強しにヨーロッパに行くとか、スニーカーを集めるために世界中を歩いてみたりとか。そんなところが重なっていくんですよ。
――まさに探究心だったということですね。
そのころに出会った若者が、いまや神と呼ばれるようなデザイナーになっていたりするわけです。「すぐにお金になる」ということで付き合いをする人たちにとっては、当時の彼らはおそらく周りが無視する人たちばかりですよ。でもその人たちが、立派な人間になっていった。それはレストランなど、食に関する世界でもそうです。今回、僕は食の映画を撮りましたが、そういう人間関係の積み重ねの中で撮らされたという感じなんです。
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