豊臣秀吉の「自分アピール」が圧倒的だった訳 「相手がどう思うか」の配慮に長けていた天下人

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こうなってくると、爆走というよりは、

7~8時間のウォーキング。

もちろん、長時間のウォーキングは本当にキツいし、連日だし、メッチャクチャ大変なことってのは重々承知のうえでですが……〝不可能〟ではなかったみたいです。

でもだよ(なれなれしくてすみません)、

それならどうして「中国大返し」が、「奇跡!」とか「神業!」と言われて、もてはやされてきたのか?

その答えは、これまでの「中国大返し」が、

「備中高松城から姫路城までの約100キロを、たった〝1日〟で走り抜けた!」

という、まさしく〝神業設定〟だったからなんですね(底抜けにヤバい)。

「1日100キロ走破」が手紙に書かれていた

何万人が1日で100キロを走破……

そのあとにもまた長距離を移動して、途中にいる敵も倒し、最後には明智との大決戦が待ってる……兵士全員がアベンジャーズなら可能です。

にもかかわらず、この説が信じられてきたのには理由がありまして……ある手紙に

「秀吉たちは1日で約100キロ走った!」

なんてハゲたことが書かれていたからなんです。

でも、じゃあいったいそんな手紙を誰が書いたんだというとこれが、

〝秀吉本人〟

なのでございます。

さ、こっからがパフォーマンス男の本領発揮です。

その手紙ってのは、「山崎の戦い」から約4カ月後に、秀吉が織田信孝(信長三男)さんに宛てたもの(家臣に送って「信孝さんに見せといて!」といったもの)。

で、このときの秀吉と信孝は、

「信長様(父上)亡き後の織田家は、このオレが引っ張っていくんだ!」

というオーラをお互いがブリバリに出していて、2人の関係がおもくそピリついてる時期。ハッキリ言って、信孝は秀吉にムカついてます。

こういったベースがあった中、その手紙には……、

秀吉「(なんやかんや書いてあって……)で、6月7日に27里(約106キロ)を一昼夜(24時間)で走り抜けて姫路城へ入ったんです! よし、これでちょっと休憩だーなんて思ってたら、大坂(大阪)にいる信孝様が、明智に囲まれてるってのを8日に聞いてですね! 信孝さまが切腹させられたら大変だーって、そこからまた昼も夜もなしに走って……」

という感じのことが書かれてる。

つまりこれ、

「オレ、織田家や信孝さんのためにこんなに頑張ったんすよ! だからオレを悪く思うの違くありません!?」

という、秀吉による超絶アピールのための手紙だったんです。

次ページ「1日で100キロ走った」という文章の意味
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