「アリ型」日本人は、変化に対応できない アリの「閉じた系」からキリギリスの「開いた系」へ

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線を引くことで次の問題が生まれる

ところがここに根本的なジレンマがある。「問題を解くために引いた線」がまさに「次の問題を引き起こす」のである。それは先に述べたように、ある目的のために概念上引いた線が固定化してしまって、実態の変化と乖離していくことがあるからである。

本来「どこに線を引くべきか」は時間の経過によるさまざまな変化によってフレキシブルに変えるべきなのに、一度引かれてしまった線は固定的に考えられがちで、そこに実態との乖離が生じるのである。

先の「業界」や「組織」、あるいは「製品カテゴリー」などというのが企業活動における例である。これらが時間の経過とともに実態と乖離しているのに、本来は問題を解決するために引かれたこれらの線が固定化して独り歩きすることになる。そうなると「これはどの組織が担当すべきか」とか「これはどの製品カテゴリーの話なのか」という話が先にくるという、本末転倒の話になってしまうのである。

一般に「閉じた系」である閉鎖的な組織は、外乱が少なく「一丸となった」行動も取りやすいために問題解決の手段としては優れていて、急成長をもたらすことも多い。しかし、これがある時点を超えると、むしろ「新しい変化に対応ができない」という形で急速に「時代遅れ」になっていくのである。

このように、あくまでも便宜上定義したはずの「線」に縛られて、顧客ニーズの変化や技術的なイノベーションによってもたらされる変化との乖離が大きくなっていく。ここに「次の新たな問題」が発生するのである。まさに「線引きのジレンマ」と言える。

「線を固定化して考える」アリにとっては、この矛盾を見つけることは非常に難しい。ところが線を引かずに物事を観察するキリギリスはこの矛盾に気づき、「線を引き直す」ことの必要性を発見できるのだ。

たとえば言葉遣いで言えば、「正しい日本語」に固執するのがアリの発想である。言語というものは時代とともにリアルタイムで変化していくものであるが、アリは「文法」や「語法」という「正しい日本語」の線引きを固定的に考える。多くの人が言葉遣いを変えても「正しいのはこの読み方だ」と、文法ありきで考えるのである。

対してキリギリスは、どこまでが正しいとか間違っているという発想はしない。「20%の人が使っている言葉だ」とか「最近こういう話し方をする人が増えてきている」という形で、事実をありのままに連続的に把握する。そこに「線」を持ち込まないから、変化に対して敏感であるとともに変化に柔軟に対応し、アリの引いた線の矛盾にすぐに気づくのである。

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