石川:そういった観点からすると、トランプにある種のマージナル性を見ることも可能だと思っています。日本が最も豊かだった1980年代、不動産屋というのは実業家といってもアメリカ・ローカルな仕事でしたし、ある時期からはビジネスマンとしては時代遅れで基本的にはテレビタレントとなっていました。そういう意味では、政治の世界で特定のイシューを持たない、マージナルな人だったといえるでしょう。
トランプが大統領になったことは確かにびっくりだったけれども、アメリカの大統領選挙の歴史を考えれば不思議ではない、マージナル性という点でトランプは確かにマージナルだったといえます。
トランプは使い勝手がよかった
あとマージナル的な曖昧さの“都合のいい“ところは、政治的にアクティブなアメリカのさまざまな勢力にとって、とても使い勝手がいいということです。例えばキリスト教福音派がなぜトランプを支持するかといったら、彼がキリスト教徒として立派なわけではないことは皆が承知していますが「少なくとも異教徒との戦いにあいつは使える」という理解なのでしょう。
つまり、何者かわからない人間(マージナル性)は使い勝手がいいと思われやすいのです。近年のアメリカの現状分析をしている人たちの研究会でも勉強させていただいているのですが、明らかにどちらが勝つかがわかる見事な分析を示しながらも、勝敗の明言は概して避けます。アメリカン・デモクラシーは誰が大統領に当選するかが構造的にわからないようにできているといえます。
ただし注意しなければならないのは、アメリカ大統領選挙は「丁半博打」のように気まぐれかというとそうではないということです。歴史的経緯から想像もつかないように起こるのではなくて、ある種、歴史的経緯の枠組み上で必然的に起こる変化であろうと思います。ただ見落とすだけです。
例えば、社会主義的なことを掲げた候補も、ある程度はマージナル性に関してうまくやっていかないと、大統領までは上りつめられないかもしれません。そういう意味で言えば、グリーン・ニューディールだとか、気候変動の問題だとか、今あげた社会主義というイシューにインテリは注目するけれども、そのままでは大統領にはなれません。
あと同様の理由で、ワン・イシュー(ひとつの争点を掲げる)候補というのも、かなり厳しいのです。前回の大統領選挙でも、予備選挙段階で瞬く間に負けていました。ですから、イシューが1つではダメで、“Yes, we can.”や、”Make America great again.”といった漠然としたものである必要があるんです。
では、何で決めるのかといわれたら、キャラクターなのです。繰り返しになりますが、『アメリカの反知性主義』でリチャード・ホーフスタッターが書いているように、「ウィットやユーモアはダメで、信じられるのはキャラクターなのだ」というのが実際のところです。
トランプがキャラクター的にどうかということになりますが、アメリカ国民にとって、ぎりぎりの許容範囲で1つのキャラクターかもしれない、ということなのでしょう。つまり、それと比較して、非常に険しく怒る人物をはたしてアメリカの大衆が望むか、夫の不倫を冷静にやりすごす女性(ヒラリー・クリントン)を民衆が望むか、という結果だったと思います。
そして、アメリカ大統領選は概して熾烈な人格攻撃の応酬になってしまうのも、これらの理由から合理的な側面があるのだとわかるでしょう。アメリカ人はキャラクターを観察しているのであって、知性を観察しているわけではないし、議論をしているのではなく、「内戦」を行っているのだということです。