作者はこの直後にヌケヌケと「信ずるにはあまりにも馬鹿々々しい話ではないか。少なくとも良識のある人間にとって、こんな話がまともにうけ入れられるであろうか」と書いている。
いや、良識の有無に関係なく、誰もうけ入れられません。こんなバカバカしいにも程がある設定(木に人間の脳を移植するだの、その木を切ってタンスを作ったらタンスが脳と同じ意思を持つだの、タンスが自由に歩き回り暴れまくるだの)にしておきながら、よくそんなことを真顔で書けたものだ。まぁ波野氏が真顔で書いてたかどうかなんて分からないですけど。
その後、意思をもった殺人タンスはO市内を暴れまくり、たちまち70人もの市民や警官がタンスに惨殺されてしまう。しかし遂に追い詰められた殺人タンスは、足がないにもかかわらず摩天閣(当然イコール通天閣)に昇り始めた。
そして塔上に立った殺人タンスは、一斉射撃を喰らう。すると観念したのか、摩天閣から身を投げ、地面に叩きつけられてバラバラになる。こうしてO市を恐怖のドン底に叩き込んだ怪人ジキル事件は、遂に恐るべき終結を迎えたのであった。感動のジ・エンドである。
本書中で判明しているだけでも、55人前後+26人+70人=150人前後という少年探偵小説史上、空前絶後の死者の数にも衝撃を受けたが、何より、殺人鬼の脳移植を受けた木(その段階で既にオカシイ)で作られたタンスに殺人鬼の意思が宿り、しかも自由に動き回る事ができるという天馬空を翔る設定に唖然茫然、自分の価値観まで揺るがせられたものだった。
「王様の耳はロバの耳」どころの騒ぎじゃないこの秘密を到底自分一人では持ちきれないことを悟った筆者は、当時文通していた、師匠格にあたる某探偵小説マニアの方に手紙であらすじをご報告した。すると、その方から、さらに驚くべきご教示を頂いた。つまり、このバカバカしいけれども書いている本人はいたって大真面目な珍無類のスリラーには、元ネタがあるというのだ!
しかもその元ネタとは、当時から筆者が愛好していた、フランス最大のユーモア・コント(日本でいうショート・ショートのイメージ)作家、ピエール・アンリ・カミ(1884~1958)の作品だったのである。
偉大なユーモリスト、カミ
チャプリンの親友でもあったカミは、大量のユーモア・コントや探偵小説風のユーモア小説を発表しており、ごく最近ハヤカワ・ポケット・ミステリから『機械探偵クリク・ロボット』や『三銃士の息子』が刊行されたのを記憶されている方も多いと思う。
長編『エッフェル塔の潜水夫』も有名だが、なんといってもカミの本領はコントで、日本に多く紹介されているのは、シャーロック・ホームズのパロディ『ルーフォック・オルメスの冒険』シリーズである。
このシリーズ、名探偵オルメスと宿敵・怪盗スペクトラとの対決を中心に奇想天外・抱腹絶倒の事件のてんこ盛りだ。
たとえば、地下墓地で骸骨達が人間に襲い掛かるという奇怪な事件が起きたが、真相は背中にレントゲンの機械を背負ったスペクトラ達が背中から照射するX線のせいで骸骨に見えていたのだった。また、誘拐した人気作家に無理やり小説を書かせるため、巨大なインク壷に作家を閉じ込めてインクを注ぎ続け、ひたすら小説を書いてインクを減らさない限りはインクで溺れ死んでしまうような仕掛けをスペクトラが仕組んだ――などなど、アイデア、筆致ともどもナンセンスの極みの傑作群である。
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